南京攻略戦と南京事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 06:22 UTC 版)
「ミニー・ヴォートリン」の記事における「南京攻略戦と南京事件」の解説
金陵女学院では1937年12月8日から女性や子供を中心とする避難民の受け入れを開始。当初は中国軍の作戦行動で自宅を焼損・破壊された住民が避難し、日本軍の南京城攻撃が始まると激しい空襲と砲撃をおそれて避難民は増加し1,000人近くに達した。13日未明に中国軍が敗走し、日本軍が南京を制圧すると、空襲や砲撃は止んだが、日本兵による掠奪や住民への暴行・強姦の被害が報告されるようになり、ヴォートリンは女性や子供の難民を施設の容量にかかわらず無制限に受け入れるようにした。強姦被害をおそれる若い女性を中心に金陵女学院の避難民はその後毎日増え続け、同月21日にヴォートリンはキャンパス内に6-7千人かそれ以上の避難民がいるのではないか、と推測している。 また安全区内にあった金陵女学院にも12月13日以降毎日次々に日本兵のグループがやってきて、掠奪を行ったり、中国人の使用人や女性を連行しようとしたため、ヴォートリンは報告を受けるたびにその場に駆け付けて日本兵を退去させるために奔走した。この間に日記に記された主な出来事は下記のとおり。 16日には金陵女学院に対する公式の査察(中国兵狩り)が行われ、ヴォートリンは100人超の日本兵がやってきて部屋を調べて回るのを案内し、日本兵が中国人の使用人の腕をつかんで兵士として連行しようとするのを引き止めた。 同日 日本兵のグループがやってきて中国人の使用人を連行しようとするのを引き止めた。彼らは他の男性4人を縄でつないでキャンパス西の丘へ行き、そしてそこから銃声が聞こえた。 同日 丘や街路から時折銃声が聞こえ、夜、少女たちがトラックに載せられて「助けて」と叫びながら通りすぎていくのを目にした。 17日夜 キャンパスに大勢の日本兵がやってきて中国人の使用人を正門付近へ連行し、尋問を装ってヴォートリンら学院の責任者を拘束している間に、通用門から女性12人が連行される、という事件を体験した。日本兵が校舎に入るのを阻止しようとした際にヴォートリン自身も殴られ、また尋問に際して銃撃の恐怖にさらされた。 18日 米国大使館を介して日本大使館を訪れ、自分たちの困難な体験や17日夜の事件について報告し、兵士を追い払うための書面を書いてもらった。キャンパスを警備するための憲兵が派遣されるようになった。 19日 教職員宿舎内で少女が強姦されている現場に駆け付け、兵士を追い払うという「ぞっとする話」を体験をした。 20日 日本軍の高級将校らが視察に訪れている最中に日本兵2人が女性を連行しようとしたのを引き止めたが、将校は兵士を叱責しただけで放免した。 同日夜 昼間の視察の影響もあってか憲兵が25名も派遣されてきた。その憲兵が女性2人を強姦する事件が起きた。 21日 前日夜の事件を受け、日本大使館へ行って、憲兵の数を減らしてもらうよう要請した。大使館へ往復する途中、中国人の使用人の父親が殺されたと聞いていたのを確認しに行き道路の中央に倒れている遺体を発見して遺体の場所を移し、ジェンキン氏宅を見回りに行って宅内が掠奪を蒙り使用人が車庫で射殺されているのを発見した。 24日には日本軍の師団の高級軍事顧問が訪れて避難民1万人の中から売春婦100人を選別することを要求し、兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することができれば、強姦事件はなくなるだろうと説明し、21人を選別していった。 同月22日頃には警備のため派遣されてくる憲兵との接し方や警備方法が安定したため夜間平穏に過ごせるようになり、城内の兵士の数が減ったために日中に金陵女学院にやってくる日本兵グループの数は少なくなった。 1937年末から、住民の中から中国軍の元兵士を選別するための住民登録が行われ、その過程で元兵士とされた多くの男性住民が連行され、行方不明となった。ヴォートリンは、夫や息子を救ってほしいとの相談をその妻や母親ら多くの女性から受けて、日本軍の南京占領当初からその後の住民登録の過程で日本軍に連行されて行方不明になっている住民についての申し出ベースのデータをまとめ、2月初に行方不明者の資料を日本大使館に提出した。一方で、日本軍政当局からは早期に避難民を帰宅させ、避難所を閉鎖するよう度々促され、帰宅した避難民の強姦被害が相次いで報告されている状況を懸念しながら、避難所を縮小していくことになった。
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