1937年12月
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「トラウトマン和平工作」の記事における「1937年12月」の解説
12月2日、蔣介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることをトラウトマンに伝達した。しかしこの段階でも蔣介石の対日不信は根強く「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとした。しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略し次いで南京を攻略した。12月13日に、日本軍が南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。 翌14日の大本営政府連絡会議の席上で蒋介石からあった和平条件の照会について議論、和平条件の再検討が行われた。米内海相、古賀軍令部次長だけが原案の支持者で、それ以外の杉山陸相、賀屋蔵相、末次内相は条件を引き上げた。特に末次は最も強硬だった。 日本政府は、原案に新条件を加えた厳しい条件にした。原案に新たに加えられた条件は、華北・内蒙古・華中において非武装地帯を拡大すること、内蒙古自治政府および華北特殊政治機構を承認すること、保証駐兵、賠償などである。特に、賠償は直接賠償だけでなく戦費の賠償も含まれていた。12月21日の閣議で日本政府は新条件を決定した。東亜局長の石射猪太郎は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。 支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。 所要地域に非武装地帯をもうけ特殊の機構を設定する。 日満支三国間に緊密な経済協定を締結する。 支那は帝国にたいして所要の賠償をする。 以上の他口頭説明として細目を次のように付加した 支那は満州国を承認する。 支那は排日反満政策を放棄する。 北支・内蒙古に非武装地帯を設定する。 北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定しこれに広汎な権限を与え日満支経済合作の実をあげる。 内蒙古に防共自治政府を設定する。 支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力する。 日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市には租界外に特殊政権をもうけ日支協力して治安維持と経済発展にあたる。 日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信に関し協定を締結する。 支那は帝国にたいし所要の賠償をする。 付記 北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍の保障駐屯することを認める。 前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する 。 広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。満州国の承認と賠償等の条件を加重した、この第2次和平案が国民政府に伝わったのは12月26日のことである。蔣介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。 加重の理由は、第二次上海事変は中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まり、上海戦における日本側犠牲者は日露戦争の旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものであったからと言われている。
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