さいご‐つうちょう〔‐ツウテフ〕【最後通×牒】
【最後通牒】(さいごつうちょう)
外交交渉やビジネスにおいて、交渉条件の譲歩・調整を行う意志がない事を明示する発言・文書。
条件面などで折り合いが付かないまま時間が浪費される場合に、交渉を打ち切るために通達される。
外交上の重大な局面で通達される場合、事実上の宣戦布告として扱われる事も多い。
その場合の最後通牒は「期日までに全面的な合意が得られなければ宣戦布告する」旨が明示される。
国際法において、開戦の条件を明示する最後通牒は公式な宣戦布告として扱われる。
しかし、現代の国際常識において、最後通牒は必ずしも『紳士的』な態度を示すものとはみなされない。
明白に理不尽な条件を付帯した、宣戦布告のみを目的としているとしか思えない最後通牒の例もある。
そうした行為は国連憲章が禁止する「武力による威嚇」であると解釈され、現在では十分な法的正当性を備えていない。
最後通牒
最後通牒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 07:06 UTC 版)
ムスタファ・ケペル大提督率いるボスプラス帝国の三個艦隊は、オルヴィエート本星を包囲し封鎖作戦を実行した。商業国家であるオルヴィエートにとって星間貿易とは生命線であり、封鎖の長期化は国家の破綻を意味していた。
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最後通牒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:12 UTC 版)
大本営からの指示に基づき、土橋第38軍司令官は1945年3月9日21時(現地時間。以下同様)の作戦発動を決めた。日本軍は第1期作戦としてフランス軍駐屯地を奇襲で撃破することを目標とし、各部隊は密かに攻撃態勢に移行した。最後通牒を仏印側が受諾した場合は「3・3・3」、拒絶した場合は「7・7・7」を、暗号として発動予定時刻5分前までに各部隊へ打電することとした。 3月9日18時、日本側の松本俊一特命大使が、米の供出に関する協定の名目でサイゴンのドクー総督を訪問。供出協定調印後、松本大使は最後通牒を提示して退去。通牒内容は、日仏共同防衛の精神に基づき、連合軍上陸の際には日本軍と協力する決意を求めるもので、次の2点について21時まで2時間以内の返答を要求した。 フランス軍及び武装警察を全面的に日本軍の指揮下に入れ、交通・通信機関を日本軍の管理下に移す。 仏印全土に対し、日本の要請に全面的かつ忠実に協力すべき旨を布告する。 検討の後にフランスのドクー総督は、ロバン大佐を使者として送り、連合軍上陸時には日本軍司令部が戦闘指揮の一切の責任を有することは認めるが、2点の要求事項には即答できないと回答することにした。そして、交渉継続の意思がある旨を告げ、日本軍の挑発行為がない限りフランス軍は敵対行動は行わないとも申し出た。しかし、使者は21時までに日本側に到達できなかった。 この間、開戦予定時刻前の20時55分頃から、各地で日本軍の接近に気付いたフランス軍との間で戦闘が開始。歩兵第227連隊は独断で攻撃を開始した。土橋軍司令官は、21時を20分以上過ぎても回答が来ないため、正式に「7・7・7」の攻撃開始命令を発信させた。21時25分に使者のロバン大佐が日本軍司令部に到着したが、日本側は回答内容を最後通牒の拒絶とみなし、作戦は続行された。
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最後通牒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
年明けて天正20年(1592年)正月、総21軍(隊) に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始まった。2月に渡海し半島を伝って明に攻め込む予定で、4軍までを先発させることまで決まったが、速い展開に焦った小西行長と宗義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言して、計画は急遽、停止を強いられた。これは彼らが朝鮮通信使が来たことだけをもって朝鮮が入朝した(帰服した)と嘘をついてことを進めていたことを、秀吉が度外視して明征服を実行に移そうとしていたので、不安になったためだった。 行長は嘘を取り繕うために帰服した朝鮮が変心したと新たな嘘で説明し、征明軍に道と城を貸すのを拒否していると言ったようである。朝鮮交渉の不首尾に面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側に転嫁し、平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務めることを願い出た。1月18日、秀吉はそれを許し、両名に3月末までに様子を見極めて復命するように指示。もし朝鮮が従わないのならば、4月1日になったら(まず朝鮮から)「御退治あるべし」と出征開始の号令が出された。これによって征明軍は征朝鮮軍となった。 秀吉が配下の将に伝達した文書に「高麗国の御使」として両名が派遣されたことは確認できるが、1月から3月末までの間、再び玄蘇を派遣した以外は特に行動した様子はなく、行長と義智は朝鮮には赴かなかった。それはすでに無駄であると分かっていたからに他ならない。結局、仮途入明の要求なども平和のためなどではなく、欺瞞を重ねた結果に過ぎなかった。 2月27日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったと言うが、これが俗説としても出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。秀吉が吉日である3月1日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。3月13日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが新たに示された。ようやく26日早朝、秀吉は御所に参内して後陽成天皇に朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は3月12日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。23日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。 他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった。すでに期日が過ぎた4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた。 道中、緩々と厳島神社に参拝して、毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのは、すでに戦端が切られた後の4月25日であった。
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最後通牒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:19 UTC 版)
1878年2月、トランスヴァールとズールー王国との国境問題について報告する委員会がナタール総督ヘンリー・ブルワー(英語版)によって任命された。報告書は7月に提出され、それはズールー側の主張に沿ったものだった。この報告を「一方的でボーアに対して不正である」 と考えたフレア高等弁務官はズールーに与えられる土地において、ボーア人が退去するならば補償を行うべきこと、またもしも残留するならば保護させるべきことを要求した。セテワヨは英国側の挑発的な態度に気がつき、トランスヴァール及びナタール国境でのズールーによる違法行為を認めた。 フレアを支持していたチェルムスフォード中将は1878年2月に最高司令官となりコサ族との国境紛争に勝利していた。チェルムスフォードはクリミア戦争とインドでの戦歴があったものの、ほとんどが参謀将校としてであり、野戦指揮官の経験は乏しかった。 フレアはナタールの全ての部隊を動員した。本国政府は予想されるズールーの攻撃からの防衛方針は承認する。11月11日にチェルムスフォードはブルワー総督から7,000人のアフリカ人を募集する許可を受け、アフリカ兵から成る補助部隊が組織された。 1878年、フレアは二人のズールー戦士が二人のナタール女性と駆け落ちして連れ出した些細な国境侵犯を口実として、ズールーに対し賠償として500頭の牛を要求した。セテワヨは50ポンド相当の金を送っただけだった。二人の測量技師がズールーに捕らえられる事件が起き、フレアはより一層の賠償を要求するがセテワヨは再び拒否した。フレアは使者を送り彼の要求を伝えた。 トランスヴァールが英国の統治下に入り、フレアは南アフリカを連邦化するための残る主な障害は独立したズールー国家であると確信しており、ゆえにこれを破壊すると決意していた。フレアはこれからの行動が本国政府から支持されないことも予期して事件の詳細を報告することを遅らせておき、12月11日にズールー側代理人に対し受け入れ不可能な最後通牒を発して31日までに返答することを求めた。最後通牒には以下の13の条件が含まれていた。 測量技師を捕えた犯人をナタール裁判所で裁判にかけるために引き渡すこと。 上記の犯行およびセテワヨが裁判所命令に従わなかった賠償として牛500頭を支払うこと。 測量技師への違法行為の賠償として牛100頭を支払うこと。 スワジ族長ンビリナイをトランスヴァール裁判所で裁判にかけるため引き渡すこと。 即位時の約束を遵守すること。 ズールー軍は解散し、男達は帰宅すること。 従来のズールー軍制は廃止し、英国との相談の上で別の軍制を採用すること。 帰宅した男達は結婚できるようにすること。 1877年に以前にズールーに居住していた全ての宣教師と改宗者は彼らが望むならば帰還し、元の住居に住まわせること。 宣教師たちは説教を許され、教えを望むズールー族は自由に聞けること。 上記の条件の履行を監督する英国代理人の滞在を許可すること。 宣教師およびヨーロッパ人に関する全ての紛争は弁務官同席のもとで王が公に聴取すること。 弁務官の同意なしに、ズールーランドからの追放刑は行わないこと。 フレアはズールーとの紛争を引き起こすことを望んでいたと信じられており、そしてその目的は達せられた。セテワヨは12月11日の要求を拒否してこの年の終わりまで返答しなかった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1879年1月11日に本国政府からの承認が与えられ[要出典]、開戦は既定のこととなった。
※この「最後通牒」の解説は、「ズールー戦争」の解説の一部です。
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