オーストリアハンガリー‐ていこく【オーストリアハンガリー帝国】
オーストリア=ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/04 07:08 UTC 版)
オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、ドイツ語: Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia)は、かつて中央ヨーロッパに存在した多民族国家である。ハプスブルク帝国の一つで、ハプスブルク家領の最後の形態である。
- 1 オーストリア=ハンガリー帝国とは
- 2 オーストリア=ハンガリー帝国の概要
オーストリア・ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「オーストリア・ハンガリー帝国」の解説
1866年の普墺戦争でプロイセンに敗北したオーストリア帝国ではフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)治下の1867年、アウスグライヒ(妥協策)でハンガリー王冠領におけるマジャール人指導者に自治権を認め、オーストリア・ハンガリー帝国として再建された。しかし、支配階級のドイツ人の間ではドイツナショナリズムが高まり、オーストリア帝冠領では人口3分の1のドイツ系マイノリティの支配が続くことに対してスラブ系住民は不満を高じた。多民族国家であったオーストリアは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。しかし、オーストリアでも反ユダヤ主義が徐々に高まっていった。1880年のアウストリアクス筆名の著作『オーストリア ユダヤに縁取られた宝石』は、ターフェ伯爵が祖国をユダヤ人に売ったとして批判された。 ハプスブルク帝国のオーストリアで最初に大々的な反ユダヤ主義を主張したのはゲオルク・フォン・シェーネラーである。シェーネラーは反教権主義的社会主義とゲルマン民族主義を主張し、またオーストリアとドイツの関税同盟を目標にした。シェーネラーは普墺戦争での敗北に衝撃を受けて、帝国が北ドイツ連邦から締め出されたことを屈辱と感じ、ビスマルクを信奉して、オーストリア帝国とドイツ帝国の統一(汎ゲルマン主義)を主張した。シェーネラーは初期の国民社会主義者であり、自由主義、ユダヤ、カトリック、ハプスブルク多民族国家を敵視し、ドイツ帝国やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を崇拝した。シェーネラーは「ハイル」という挨拶「フューラー(総統)」を称号とし、これはヒトラーが後にナチ党に持ち込んだ。 1882年、納税額にもとづく制限選挙が改正され、オーストリアは普通選挙となった。これによって中間層、下層、手工業者、小地主にまで選挙権が拡大し、政治団体が支持を取り付けるために反ユダヤ主義的政策を打ち出していった。1882年、ドレスデンで反ユダヤ主義の国際会議が開かれ、1883年にはケムニッツで開かれた。当時、ウィーンの社会主義者クローナヴェッターは「反ユダヤ主義とは愚者の社会主義である」といった。またウィーンのユダヤ人社会学者ルートヴィヒ・グムプロヴィッツは『人種の戦い』(1883)でユダヤ人は古代フェニキア人の影響から商人となったが「ユダヤ人は消滅することを知らなかった」とした。 ハプスブルク帝国では、自由主義が凋落し、ナショナリズム、キリスト教社会主義、社会民主主義が大きな勢力となった。ヒトラーは社会民主主義のデモ隊の組織力と行動主義に強い印象を持ち、大衆は中途半端で弱いものを決して受け入れないという教訓を学んだ。オーストリア・キリスト教社会党を率いたカール・ルエーガーは反ユダヤ主義を旗印として、オーストリアの貴族や聖職者からは批判されたが、下層中産階級や職人層、都市プロレタリア層、また教皇レオ13世やマリアーノ・ランポッラ枢機卿の支持を受けて、1897年4月にウィーン市長となった。ルエーガーはクレメンス・マリア・ホフバウアーをその精神上の父とし、啓蒙合理主義を主要な敵とするキリスト教社会運動(Christlichsoziale Bewegung)に影響を受けていた。自由主義と資本主義を批判するルエーガーは雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ』に「祖国を救うためにユダヤ人に握られている自由主義と戦う」という論文を掲載した。1890年の演説では、巨大な船にユダヤ人を積み込んで海に沈めればユダヤ人問題は解決すると述べた。1899年の演説では、ユダヤ人は資本と報道を統制して凶悪なテロ行為をはたらいているとして「ユダヤ人支配からのキリスト教徒の解放」を訴えた。また狼や豹や虎の方が「人間の顔をした肉食獣」であるユダヤ人より人間に近いとも述べ「ユダヤ人の最後の一人が消えるまで、反ユダヤ主義は消えない」とのべた。ウィーン市長になると「誰がユダヤ人であるかは私が決めることだ」としてユダヤ人を公職追放したが、知己のユダヤ人は解雇しなかったし、また貧しいユダヤ人には寛大でシナゴーグの祭式にも参列した。ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーはルエーガーの演説に感動し称賛した。ただし、後にヒトラーはルエーガーは親ハプスブルクでカトリック色が強く、底が浅いと批判もした。 ヘッセン農村運動を展開した民主化運動家・民俗学者のオットー・ベッケルは1887年の冊子『時代の王、ユダヤ人』で、反教権、反資本主義を論じた。ユダヤ人に搾取された富を取り返せば、ドイツの農民は救済されると主張したベッケルは反ユダヤ主義者として初めて帝国議会議員となった。1893年にはベッケル率いる反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)は議席数が16席にもなった。この1893年はオーストリアにおける反ユダヤ主義における絶頂であった。世紀末ウィーンは当時の反ユダヤ主義運動の中心地であり、1897年の普通選挙では反ユダヤ主義陣営が帝国議会に送り込まれていた。 他方、ユダヤ系の心理学者フロイトは1882年の手紙でノートナーゲル教授の容貌に対して「ゲルマンの森に住む野蛮人」「金髪で、頭、頬、頸、眉、それらすべて毛で被われ、皮膚と毛とはほとんど見分けがつかない」と述べており、ユダヤ系知識人にも人種的な考えがみられた。 世紀末ウィーンの音楽界では、音楽的に保守的であったブラームス派はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派のブルックナー派はワーグナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった。しかし、ワーグナー派のブルックナー派はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついており、他方でブラームス派は自由主義者で親ユダヤ的であった。なお、ユダヤ人マーラーはワーグナー派でブルックナー派に属しており、反ユダヤ主義政治家で知られるカール・ルエーガーがウィーン市長になった同じ1897年にウィーン宮廷歌劇場監督に就任している。 ユダヤ系哲学者のテオドール・レッシングによれば、ユダヤ系オーストリア人知識人の中には自分がユダヤ系であるにも関わらず、ユダヤ人であることを憎悪する者が多数おり、ユダヤのブルジョワジーを心底憎みあらゆる表現で愚弄した作家カール・クラウスを筆頭に、ヴァイニンガー、アルトゥール・トレビッチュ、ヴァルター・カレ、マクス・シュタイナー、ニーチェの知己パウル・レー、カトリックの伝統を信奉してユダヤのテーマを除外した作家ホーフマンスタール、同化政策を支持したボルヒャルト、同化ユダヤ人ヴァッサーマンなどがいた。 オーストリアのフランツ・シュタインは、シェーネラーの影響を受けて1899年にゲルマニア・ドイツ労働者連盟(Bund der deutschen Arbeiter Germania)を創設し、その汎ゲルマン労働者階級運動は社会民主主義と赤色テロを攻撃し、ヒトラーに影響を与えた。
※この「オーストリア・ハンガリー帝国」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「オーストリア・ハンガリー帝国」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
オーストリア=ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 16:57 UTC 版)
「チェコの歴史」の記事における「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説
詳細は「汎スラヴ主義」を参照 フランス革命に始まり、フランス革命戦争・ナポレオン戦争によって民族主義と国民国家の理念がヨーロッパに広まると多民族を包含する封建主義のドイツ人支配の帝国であるオーストリア帝国を大きく揺さぶった。大ドイツ主義を唱えるオーストリア帝国がドイツ統一運動から排除されプロイセン王国主導で小ドイツ主義によるドイツ統一がすすめられるようになると、オーストリア帝国は独立運動を展開するハンガリー人と和協(アウスグライヒ)し、ドイツ人が多民族を支配する帝国からドイツ人とハンガリー人がそれ以外の民族を支配する帝国(オーストリア帝国)と王国(ハンガリー王国)からなる、オーストリア=ハンガリー帝国に体制を変化させた。 これはドイツ人とハンガリー人の次に人口の多い、スラヴ人の民族主義を刺激し、汎スラヴ主義が勃興した。音楽家のベドルジハ・スメタナ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクが現れチェコやモラヴィアなど西スラブ民族音楽を基にした作品を発表し、美術ではモラヴィア出身のアルフォンス・ミュシャが汎スラブ主義を鼓舞する作品を描いたのはこの時期である。
※この「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説は、「チェコの歴史」の解説の一部です。
「オーストリア=ハンガリー帝国」を含む「チェコの歴史」の記事については、「チェコの歴史」の概要を参照ください。
オーストリア=ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 10:23 UTC 版)
「ラントヴェーア (軍事)」の記事における「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説
かつてのオーストリア=ハンガリー帝国では共同の国防省 (K.u.k. Kriegsministerium) の管轄下にある軍種を「帝国および王国軍(Kaiserlich und königliche Armee)」、もしくは「共同軍 (Gemeinsame Armee) 」と呼称した。さらに「帝国および王国ラントヴェーア (de:Kaiserlich und königliche Landwehr) 」と「ハンガリー王国ラントヴェーア (de:Königlich ungarische Landwehr) 」が存在した。これらはそれぞれ、ウィーンおよびブダペストの国防省の管轄下に置かれた。
※この「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説は、「ラントヴェーア (軍事)」の解説の一部です。
「オーストリア=ハンガリー帝国」を含む「ラントヴェーア (軍事)」の記事については、「ラントヴェーア (軍事)」の概要を参照ください。
オーストリア=ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:32 UTC 版)
「ドゥブロヴニク」の記事における「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説
1814年1月29日、オーストリア=ハンガリー帝国は町を占領しウィーン会議によって、ハプスブルク領ダルマチア王国の一部とされた。この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。週に3度、トルコのキャラバンが町のバザールにやって来た。ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、新たな港や1970年代まで存在したドゥブロヴニク市電が整備されている。フランツヨーゼフ1世やマクシミリアンの夏のヴィラが沖合いのロクルム島に築かれた。
※この「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説は、「ドゥブロヴニク」の解説の一部です。
「オーストリア=ハンガリー帝国」を含む「ドゥブロヴニク」の記事については、「ドゥブロヴニク」の概要を参照ください。
オーストリア=ハンガリー帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 09:47 UTC 版)
「王・皇帝」の記事における「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説
ドイツ人によって統治されナショナリズムの増大に直面していた多国籍オーストリア帝国がハンガリーの貴族に名目的および事実的権利を与える改革を行った1867年にもこの二重称号が使われた。この改革によってオーストリアに併合されたハンガリー王国が復活し、したがってオーストリア=ハンガリー二重君主制連合国家と「皇帝・王(ドイツ語では Kaiser und König)」の二重称号が作られた。 ハプスブルク王朝はしたがって、帝国の西および北半分(ツィスライタニエン)をオーストリア皇帝として統治し、ハンガリー王国ならびにトランスライタニエンの大半をハンガリー王として統治した。ハンガリーを一定程度の自治と連合事項(主に外交関係と防衛)に関する代表権を享受した。連邦の正式名称は「帝国議会(英語版)において代表される諸王国および諸邦ならびに聖イシュトヴァーンの王冠諸邦」であった。
※この「オーストリア=ハンガリー帝国」の解説は、「王・皇帝」の解説の一部です。
「オーストリア=ハンガリー帝国」を含む「王・皇帝」の記事については、「王・皇帝」の概要を参照ください。
オーストリア・ハンガリー帝国と同じ種類の言葉
- オーストリア・ハンガリー帝国のページへのリンク