ウィーンのユダヤ人とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ウィーンのユダヤ人の意味・解説 

ウィーンのユダヤ人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)

ウィーンの歴史」の記事における「ウィーンのユダヤ人」の解説

17世紀前半ドナウ運河対岸にある湿地帯ウンテラー・ヴェルトにゲットー完成し17世紀後半までにはユダヤ人1000人以上居住していた。しかし、皇帝レオポルト1世は、王妃反ユダヤ主義者であったことや、ウィーン市内で反ユダヤ主義風潮強かったこともあり、1670年ユダヤ人追放決定した。この時、追放されユダヤ人保護したのがウィーン東方エステルハージ家で、アイゼンシュタットなどにユダヤ人コミュニティ形成された。ただし、ハプスブルク家繁栄のためにはユダヤ人資本魅力であったため、ごく一部ユダヤ人宮廷出入りすることが許されいわゆる宮廷ユダヤ人)、引き続き重用された。第二次ウィーン包囲に際しても、ユダヤ人のザムエル・オッペンハイマーが財政面物流面などで活躍していた。 一方でレオポルト1世銀行家ザムゾン・ヴェルトハイマー財政顧問として登用している。

※この「ウィーンのユダヤ人」の解説は、「ウィーンの歴史」の解説の一部です。
「ウィーンのユダヤ人」を含む「ウィーンの歴史」の記事については、「ウィーンの歴史」の概要を参照ください。


ウィーンのユダヤ人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)

世紀末ウィーン」の記事における「ウィーンのユダヤ人」の解説

19世紀中葉以降ウィーン流入したのはポグロム忌避し東欧ユダヤ人ばかりではなかった。世紀転換期ウィーンに住むユダヤ人には、ボヘミアモラヴィアハンガリーなどにおけるドイツ語圏からウィーンにやってきて同化した人々少なくなかった周辺諸国ですでにドイツ語教育を受け、財力蓄えていた中流上の人々もビジネス・チャンス求めてウィーンにやってきた。まもなく彼らはウィーン同化し、やがて社会エリート層を形成していった。バイエルン州フュルト出身の作家ヤコブ・ヴァッサーマン1873年 - 1934年)は1921年著した自伝のなかで、19世紀末ウィーン訪れたときの回想として、故郷ではユダヤ人と会うことさえ滅多になかったのに、ウィーンでは「完全に社会生活ユダヤ人によって仕切られていた。銀行新聞劇場社交的な行事そうしたことのすべてがユダヤ人の手中にあった。…私はユダヤ人医者法律家クラブメンバー俗物伊達男プロレタリア俳優ジャーナリスト詩人おびただしさ驚いたと書き記している。 ウィーン大学学生1880年代において3分の1ユダヤ人占められ法学部22%、医学部では38%にのぼっていた。医学部ユダヤ人学生1890年1914年にはそれぞれ48%、50%にまで上昇した大学教員では、1910年段階法学部教員37%、医学部教員51%がユダヤ系であった。ただし、これらはほとんど無給教員で、ユダヤ系有給正教授は各学部でひとりずつしかいなかった高級官僚などと同じで、ユダヤ系学者大学正教授なるにはキリスト教への改宗義務づけられていたからだった。 医師のうちユダヤ教徒占め割合は、1881年には61%にのぼっていた。弁護士1890年には58%で1936年には62%であった。これはユダヤ系ではなくてユダヤ教徒数字なので改宗者含めれば割合はさらに増加するウィーンではユダヤ教徒公務員になれなかったので、改宗しない限り検事裁判官にはなれず、そのため、そうした制約のないユダヤ人弁護士増加一途たどったであったまた、上述のとおり、ジャーナリズムへのユダヤ系人々進出には著しいものがあった。その他の職業では、銀行家75%、金属取引のほぼ100%広告宣伝業の96.5%、靴、織物砂糖石油材木製紙ワイン商の約7%、宝石商、カフェ・オーナーの約40%がユダヤ系占められていた。 二重帝国その周辺国から「教養」の理想自由主義求めてウィーンに居を移し少なからぬ差別遭遇しながらも人一倍努力傾けて同化したユダヤ系市民は、自らの「同化」については寸分疑問も持たなかった。ウィーンユダヤ系住民多くは真剣に自分たちの街を愛していたし、シュテファン・ツヴァイク指摘によれば15世紀スペイン除けば19世紀末ウィーンほどユダヤ人キリスト教徒との間で実り豊かな協力関係築き上げた例は他になかった。シオニズム身を投じた一部例外除けばユダヤ系人々多くいかなる民族運動にも加わることなくハプスブルク帝国忠実であり続けた第一次世界大戦にあってもウィーンのユダヤ人のうちの数千人が帝国のために戦い、その多く祖国殉じた。彼らは、自身オーストリア人であり、ウィーン市民であることには何ら疑問をいだかなかった。 ただし、ユダヤ系知識人同化ようとしたのはオーストリアという国家であるよりは、むしろ、彼らの心のなかに生き続けた観念的なドイツ」、「すべての人間自由に生きられる約束の地」であるところの「ドイツであったという指摘がある。それによれば実際ドイツゲーテの昔からいかにか離れたものであっても、たとえばアルトゥル・シュニッツラージークムント・フロイトらは心のなかの「ドイツ」への愛着捨て去ることができなかったのであり、たとえ「教養」の内実虚飾まみれたものであっても、彼らは「教養」の理想放棄することはできなかったのである諸芸術のなかで、美術・工芸建築分野音楽分野におけるユダヤ人について後述する通りであるが、これに比較して文学占めユダヤ系作家割合大きかったツヴァイク挙げた9割という数字は、いささか誇大に過ぎるとはいえ1891年シュニッツラーリストアップした23人の重要作家のうち16名はユダヤ系で、全体の7割におよんでいた。個人主義ないしコスモポリタニズムとしての教養」の理想は、やがてナチス掲げ理想とは正面から衝突し、のちにナチスによるユダヤ人虐殺という大きな悲劇産んだウィーンユダヤ人とともに繁栄してきた街であったが、同時にユダヤ人差別し、やがてユダヤ人たちを無慈悲に追放したであった

※この「ウィーンのユダヤ人」の解説は、「世紀末ウィーン」の解説の一部です。
「ウィーンのユダヤ人」を含む「世紀末ウィーン」の記事については、「世紀末ウィーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ウィーンのユダヤ人」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウィーンのユダヤ人」の関連用語

ウィーンのユダヤ人のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウィーンのユダヤ人のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのウィーンの歴史 (改訂履歴)、世紀末ウィーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS