ウィーンのユダヤ人
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「ウィーンの歴史」の記事における「ウィーンのユダヤ人」の解説
17世紀前半、ドナウ運河の対岸にある湿地帯ウンテラー・ヴェルトにゲットーが完成し、17世紀後半までにはユダヤ人が1000人以上居住していた。しかし、皇帝レオポルト1世は、王妃が反ユダヤ主義者であったことや、ウィーン市内で反ユダヤ主義の風潮が強かったこともあり、1670年にユダヤ人追放を決定した。この時、追放されたユダヤ人を保護したのがウィーン東方のエステルハージ家で、アイゼンシュタットなどにユダヤ人コミュニティが形成された。ただし、ハプスブルク家の繁栄のためにはユダヤ人資本は魅力であったため、ごく一部のユダヤ人は宮廷に出入りすることが許され(いわゆる宮廷ユダヤ人)、引き続き重用された。第二次ウィーン包囲に際しても、ユダヤ人のザムエル・オッペンハイマーが財政面、物流面などで活躍していた。 一方で、レオポルト1世は銀行家ザムゾン・ヴェルトハイマーを財政顧問として登用している。
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ウィーンのユダヤ人
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「世紀末ウィーン」の記事における「ウィーンのユダヤ人」の解説
19世紀中葉以降、ウィーンに流入したのはポグロムを忌避した東欧ユダヤ人ばかりではなかった。世紀転換期のウィーンに住むユダヤ人には、ボヘミア、モラヴィア、ハンガリーなどにおけるドイツ語圏からウィーンにやってきて同化した人々も少なくなかった。周辺諸国ですでにドイツ語教育を受け、財力を蓄えていた中流以上の人々もビジネス・チャンスを求めてウィーンにやってきた。まもなく彼らはウィーンに同化し、やがて社会のエリート層を形成していった。バイエルン州フュルト出身の作家、ヤコブ・ヴァッサーマン(1873年 - 1934年)は1921年に著した自伝のなかで、19世紀末にウィーンを訪れたときの回想として、故郷ではユダヤ人と会うことさえ滅多になかったのに、ウィーンでは「完全に社会生活がユダヤ人によって仕切られていた。銀行、新聞、劇場、社交的な行事、そうしたことのすべてがユダヤ人の手中にあった。…私はユダヤ人の医者、法律家、クラブのメンバー、俗物、伊達男、プロレタリア、俳優、ジャーナリスト、詩人のおびただしさに驚いた」と書き記している。 ウィーン大学の学生は1880年代において3分の1がユダヤ人で占められ、法学部で22%、医学部では38%にのぼっていた。医学部のユダヤ人学生は1890年、1914年にはそれぞれ48%、50%にまで上昇した。大学教員では、1910年段階で法学部教員の37%、医学部教員の51%がユダヤ系であった。ただし、これらはほとんど無給の教員で、ユダヤ系で有給の正教授は各学部でひとりずつしかいなかった。高級官僚などと同じで、ユダヤ系の学者が大学の正教授になるにはキリスト教への改宗が義務づけられていたからだった。 医師のうちユダヤ教徒の占める割合は、1881年には61%にのぼっていた。弁護士は1890年には58%で1936年には62%であった。これはユダヤ系ではなくてユダヤ教徒の数字なので改宗者も含めれば割合はさらに増加する。ウィーンではユダヤ教徒は公務員になれなかったので、改宗しない限り検事や裁判官にはなれず、そのため、そうした制約のないユダヤ人弁護士は増加の一途をたどったのであった。また、上述のとおり、ジャーナリズムへのユダヤ系の人々の進出には著しいものがあった。その他の職業では、銀行家の75%、鉄・金属取引のほぼ100%、広告宣伝業の96.5%、靴、織物、砂糖、石油、材木・製紙、ワイン商の約7%、宝石商、カフェ・オーナーの約40%がユダヤ系で占められていた。 二重帝国とその周辺国から「教養」の理想と自由主義を求めてウィーンに居を移し、少なからぬ差別に遭遇しながらも人一倍の努力を傾けて同化したユダヤ系市民は、自らの「同化」については寸分の疑問も持たなかった。ウィーンのユダヤ系住民の多くは真剣に自分たちの街を愛していたし、シュテファン・ツヴァイクの指摘によれば、15世紀のスペインを除けば、19世紀末のウィーンほどユダヤ人とキリスト教徒との間で実り豊かな協力関係を築き上げた例は他になかった。シオニズムに身を投じた一部の例外を除けば、ユダヤ系の人々の多くはいかなる民族運動にも加わることなく、ハプスブルク帝国に忠実であり続けた。第一次世界大戦にあってもウィーンのユダヤ人のうちの数千人が帝国のために戦い、その多くが祖国に殉じた。彼らは、自身がオーストリア人であり、ウィーン市民であることには何ら疑問をいだかなかった。 ただし、ユダヤ系知識人が同化しようとしたのはオーストリアという国家であるよりは、むしろ、彼らの心のなかに生き続けた観念的な「ドイツ」、「すべての人間が自由に生きられる約束の地」であるところの「ドイツ」であったという指摘がある。それによれば、実際のドイツがゲーテの昔からいかにかけ離れたものであっても、たとえばアルトゥル・シュニッツラーやジークムント・フロイトらは心のなかの「ドイツ」への愛着を捨て去ることができなかったのであり、たとえ「教養」の内実が虚飾にまみれたものであっても、彼らは「教養」の理想を放棄することはできなかったのである。 諸芸術のなかで、美術・工芸・建築分野、音楽分野におけるユダヤ人については後述する通りであるが、これに比較して文学に占めるユダヤ系作家の割合は大きかった。ツヴァイクが挙げた9割という数字は、いささか誇大に過ぎるとはいえ、1891年にシュニッツラーがリストアップした23人の重要作家のうち16名はユダヤ系で、全体の7割におよんでいた。個人主義ないしコスモポリタニズムとしての「教養」の理想は、やがてナチスが掲げる理想とは正面から衝突し、のちにナチスによるユダヤ人虐殺という大きな悲劇を産んだ。ウィーンはユダヤ人とともに繁栄してきた街であったが、同時にユダヤ人を差別し、やがてユダヤ人たちを無慈悲にも追放したのであった。
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