第二次ウィーン包囲の意義
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「第二次ウィーン包囲」の記事における「第二次ウィーン包囲の意義」の解説
第二次ウィーン包囲は、16世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。第二次ウィーン包囲がオスマン帝国の衰退を決定付けたとみる評価がオスマン帝国史の叙述においては通説となっている。また、第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る16年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパにおいて大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけを作った。 精神的意義としては、100年前のレパントの海戦に続いて、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国に対して抱いてきた脅威を打ち崩す戦闘であった。バルカン諸国史の叙述においては、オスマン帝国のバルカン支配を抑圧であるとみなし、この包囲が解放と後の民族自立への第一歩となった事件という評価を下している。 文化的な意義としては、クロワッサンはこの戦争の勝利を記念してトルコ国旗の意匠である三日月を象ったものという説がある。またウィーンでコーヒー文化が広まったのはウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけ、これをポーランド・リトアニア共和国軍のイェジ・フランチシェク・クルチツキ(英語版)が払い下げを受け軍を退役、1686年にウィーンでカフェ「青いボトルの下の家(英語版)」(ドイツ語: Hof zur Blauen Flasche)を開いたのが始まりである(コーヒーに砂糖とミルクを加えるカプチーノはこの時クルチツキによって発明されたとも言われる)、ベーグルはウィーンのユダヤ人パン店主たちがヤン3世へ感謝のしるしに馬の「あぶみ」の形をしたこのパンを献上したのが始まりであるといった言い伝えがある。これらはこの戦いがヨーロッパの人々のオスマン帝国に対する印象を変えた象徴であったことをよく示している。 なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。
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