第二次イラク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:09 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1991-現在)」の記事における「第二次イラク戦争」の解説
詳細は「イラク戦争」を参照 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、サッダーム・フセインがテロを支援し、1991年の国連停戦決議に違背し、生物兵器、化学兵器および核兵器を所有しているとしてイラク侵攻意図を公にし始めた。 アメリカ合衆国の同盟国にはインド、日本、トルコ、ニュージーランド、フランス、ドイツおよびカナダが含まれていたが、ブッシュ大統領が言う全面的な侵攻を正当化するだけの十分な証拠があるとは思っていなかった。特にアフガニスタンではまだ軍隊が必要な状況だった。国際連合安全保障理事会はイラク侵攻を承認せず、それ故にアメリカ軍がイラク侵攻の主体となった。アメリカ軍の主要な協力国はイギリス、オーストラリア、ポーランド、スペインおよびイタリアだった。2003年3月20日、イラク侵攻が始まった。 連合軍とイラク軍の戦闘が6週間続いた後、連合軍はイラク国内の重要地域を征圧した。サッダーム・フセインはその宮殿から逃亡し、その国内支配は明らかに終わった。5月1日、ブッシュは「任務は達成された」と書かれた看板の下で、地上での主要作戦は終わったことを宣言した。フセインの息子達、クサイとウダイはアメリカ軍に殺された。サッダーム・フセイン自身も12月に捕捉され、刑務所に収容された。それでもイラク反政府軍との戦闘は続いており、2004年アメリカ合衆国大統領選挙が終わっても拡大を続けた。 イラク侵攻に伴う犠牲者数が増加し、侵攻と再建の費用は2,000億ドルと推計されたことで、主要作戦の終結が宣言されて以降、アメリカ国内の支持者の約3分の1は失うことになった。最近の世論調査ではアメリカ合衆国に対する国際的な不満はかつてない位の高みにあり、ヨーロッパの住民の大半は、アメリカ合衆国があまりに強大すぎて主に自国の利益のために行動していると考えており、イスラム教国の大半はアメリカ合衆国が傲慢で、好戦的で、イスラム教を憎んでいると考えている。 イラクの状況は次第に難しいものとなり、政策立案者達は新しい選択肢を探し始めた。このことからジェイムズ・ベイカーとリー・ハミルトンを中心とする超党派委員会であるイラク研究集団が形成された。この集団は様々な提言を行った。その中でも顕著なものはイラクにおけるアメリカ軍駐留兵力の削減を求めたこと、近隣諸国との関与を求めたこと、またイスラエルとパレスチナのような地域紛争を解決することにより大きな関心を促したことだった。この提言は概して無視され、アメリカ軍によるイラクへの直接関与は今日でも続いている。
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