第二次イタリア独立戦争
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第二次イタリア独立戦争(だいにじイタリアどくりつせんそう、イタリア語: Seconda guerra d'indipendenza italiana、ドイツ語: Zweiter Italienischer Unabhängigkeitskrieg、フランス語: deuxième guerre d'indépendance italienne)、または1859年イタリア戦争(仏: guerre d'Italie de 1859)、1859年イタリア戦役(仏: campagne d'Italie de 1859)、サルデーニャ戦争(独: Sardinische Krieg)、1859年フランス・オーストリア戦争(英: Franco-Austrian War of 1859)、1859年オーストリア・サルデーニャ戦争(英: Austro-Sardinian War of 1859)[4]は1859年にフランス第二帝政とサルデーニャ王国がオーストリア帝国と戦った戦争。イタリア統一運動の過程で重要な役割を果たした。
- ^ "Leopold II (grand duke of Tuscany) – Encyclopædia Britannica". Britannica.com. Retrieved 26 September 2009.
- ^ Micheal Clodfelter. "Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500–2000", 4th Edition. 2017. Page 181.
- ^ a b Clodfelter, p. 181.
- ^ Arnold Blumberg, A Carefully Planned Accident: The Italian War of 1859 (Cranbury, NJ: Associated University Presses, 1990); Arnold Blumberg, "Russian Policy and the Franco-Austrian War of 1859", The Journal of Modern History, 26, 2 (1954): 137–53; Arnold Blumberg, The Diplomacy of the Austro-Sardinian War of 1859, Ph.D. diss. (Graduate School of Arts and Sciences, University of Pennsylvania, 1952).
- ^ “Second War of Italian Independence, 1859–61”. www.historyofwar.org. 2018年3月30日閲覧。
- ^ Administrator. “La Seconda guerra d'indipendenza”. www.150anni-lanostrastoria.it. 2018年3月30日閲覧。
- ^ Luigi Tomaz, In Adriatico nel secondo millennio, Presentazione di Arnaldo Mauri, Think ADV, Conselve, 2010, p. 411.
- ^ Sapere.it. “La seconda Guerra d'Indipendenza e la spedizione dei Mille – Sapere.it”. www.sapere.it. 2018年3月30日閲覧。
- ^ Engels, Friedrich; Preußische Militärfrage und die Deutsche Arbeiterpartei; Hamburg 1865 (Meißner); reprint Berlin 1974 (Dietz).
- ^ Lohner, Henry; Wie wird man schnell reich?; Norderstedt 2011; p. 78; ISBN 978-3-8423-7334-1
- 1 第二次イタリア独立戦争とは
- 2 第二次イタリア独立戦争の概要
- 3 戦闘
- 4 講和
- 5 年表
第二次イタリア独立戦争
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「イタリア統一運動」の記事における「第二次イタリア独立戦争」の解説
詳細は「第二次イタリア独立戦争」を参照 1858年1月14日にカルボナリのフェリーチェ・オルシーニがフランス皇帝ナポレオン3世の暗殺を謀った。オルシーニは獄中から死刑は受け入れるが、ナポレオン3世に対して皇帝の尊厳を満たすためにイタリアのナショナリズム(英語版)に手を差し伸べるよう懇願した。ナポレオン3世はこの手紙を公開させ、新聞で報じられるとフランスではイタリア解放を求める世論が高まった。 青年時代にカルボナリ運動に参加した経験のあるナポレオン3世は、イタリア解放運動に対して好意的であり、青年時代の理想主義、伯父ナポレオン1世のイタリア征服に倣い偉大な業績を挙げたいとする野心、そしてフランスの国益などの複合した思惑からイタリア介入を決意する。 1858年7月21日、カヴールはプロンビエール(英語版)でナポレオン3世と会談し、プロンビエールの密約を調印し、共同でオーストリアへの戦争に合意した。この協定ではサルデーニャ王国はオーストリア領のロンバルド=ヴェネト王国、パルマとモデナの両公国それに教皇国家のレガツィオーネを併合することになるが、その見返りにサルデーニャ領のサヴォワとニースを割譲することになった。トスカーナ大公国は教皇領の一部を加えた上で中部イタリア王国とし、君主をハプスブルク家からフランス皇帝の従弟のプランス・ナポレオンに替え、南部の両シチリア王国は現状のままとされた。フランスが侵略者の非難を受けることなく干渉するために、カヴールがモデナの革命運動を使嗾してオーストリアを挑発することになった。しかし、モデナの暴動は不発に終わり、密約の内容が外に漏れたことでイギリスが戦争反対の意向を明確にする。 1859年3月にサルデーニャ王国は軍の動員と義勇兵を募集を開始し、オーストリアはサルデーニャ軍の武装解除を要求した。緊張が高まる中、ロシアがイタリア問題を話し合う五大国会議を提案するとナポレオン3世が戦争に消極的な態度を示し始め、カヴールを焦燥させた。だが、ウィーン宮廷は既に戦争不可避と判断しており、サルデーニャ王国に対して強硬な内容の最後通牒を発する。これを好都合としたカヴールは最後通牒を拒絶し、オーストリアを侵略者と見せかけ、フランスが介入できるようにした。 戦争自体はごく短期間のものであった。オーストリア軍の失策に乗じたフランス=サルデーニャ連合軍は6月4日のマジェンタの戦いで、フェレンツ・ジュライ(英語版)伯爵率いるオーストリア軍に勝利し、オーストリア軍はロンバルディアの大部分からの撤退を余儀なくされ、ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はミラノに入城した。両軍の決戦となったのは6月24日のソルフェリーノの戦いである。ナポレオン3世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが陣頭に立った戦闘では、両軍とも3万人近い死傷者を出したが、フランス=サルデーニャ連合軍の勝利に終わり、オーストリア軍はヴェネツィアの背後にある四角要塞地帯(英語版)に後退した。 ソルフェリーノの戦場を視察したナポレオン3世は犠牲者の多さに仰天し、ヴェネツィアを征服するために要する時間と犠牲を恐れ、また国内からの反対や、プロイセンの介入の可能性、そして強力になりすぎるサルデーニャ王国への懸念も相まってフランスはこの時点で講和を模索した。 7月11日、ナポレオン3世は同盟国のサルデーニャ王国に伝えることなく、ヴィッラフランカでフランツ・ヨーゼフと会見し、停戦に合意した(ヴィッラフランカの講和)。オーストリアはヴェネツィアを保持するが、ロンバルディアはフランスに割譲し、フランスが即座にこの地をサルデーニャ王国に譲渡することになった(オーストリアがサルデーニャ王国に直接割譲することを拒んだため)。その他のイタリアの国境は現状維持となった。戦争勃発とともに君主が追放されオーストリアへ逃れていた中部イタリアのトスカーナ、モデナそしてパルマについては各々復帰させ、レガツィオーネ地域における教皇の支配も回復させることになった。だが、ナポレオン3世がプロンビエールの密約の条件を満たさなかったため、サヴォイとニースを獲得することはできなくなった。 サルデーニャ国民はこの裏切りに激怒した。カヴールは戦争遂行を主張したが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が甘受が現実的な選択であると判断したため辞職した。だが、ヴィッラフランカでの仏墺の合意はこれを公式化するチューリッヒ条約が11月に締結された時点で死文と化していた。12月、トスカーナ、モデナ、パルマ、レガツィオーネは中央統合諸州に統一され、イギリスの勧めもあって、サルデーニャ王国との合併が表明された。フランスは講和に反するこの動きに圧力をかけたが、1860年1月にカヴールが首相に復職して交渉にあたり、ナポレオン3世はサヴォイとニースの割譲を条件にサルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した。1月に教皇ピウス9世はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をはじめ教皇領侵犯に関与した者たち全員を破門に処し領土の返還を命じたが、もはや効果はなかった。各国で住民投票が行われ、3月20日に併合が実施された。この時点で、サルデーニャ王国は北部と中央イタリアのほとんどを支配した。
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