第二次イタリア独立戦争とは? わかりやすく解説

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第二次イタリア独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 18:22 UTC 版)

第二次イタリア独立戦争

ソルフェリーノの戦いナポレオン3世ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ作、油絵、1863年。
戦争イタリア統一運動
年月日1859年4月29日 - 7月11日
場所ロンバルド=ヴェネト王国
結果:連合軍の勝利、ヴィッラフランカの休戦チューリッヒ条約の締結
交戦勢力
フランス第二帝政
サルデーニャ王国
援助国
中央統合諸州
オーストリア帝国
トスカーナ大公国[1]
指導者・指揮官
ナポレオン3世
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
ジュゼッペ・ガリバルディ
フランツ・ヨーゼフ1世
ギュライ・フェレンツ英語版
戦力
フランス:
兵士128,000
大砲312門
サルデーニャ:
兵士56,000
大砲90門[2]
オーストリア:
兵士198,000
大砲824門
損害
戦死5,498
行方不明1,128
負傷17,054
病死2,040
総計25,720
戦死1,533
行方不明1,268[3]
総計は不明
戦死12,568[3]
総計は不明
第二次イタリア独立戦争

第二次イタリア独立戦争(だいにじイタリアどくりつせんそう、イタリア語: Seconda guerra d'indipendenza italianaドイツ語: Zweiter Italienischer Unabhängigkeitskriegフランス語: deuxième guerre d'indépendance italienne)、または1859年イタリア戦争: guerre d'Italie de 1859)、1859年イタリア戦役: campagne d'Italie de 1859)、サルデーニャ戦争: Sardinische Krieg)、1859年フランス・オーストリア戦争: Franco-Austrian War of 1859)、1859年オーストリア・サルデーニャ戦争: Austro-Sardinian War of 1859[4]1859年フランス第二帝政サルデーニャ王国オーストリア帝国と戦った戦争。イタリア統一運動の過程で重要な役割を果たした。

背景

サルデーニャ王国は第一次イタリア独立戦争で負けたことで、同盟国の必要性を痛感した。そのため、サルデーニャ首相カヴール伯爵カミッロ・ベンソクリミア戦争に参戦するなどしてヨーロッパ列強との関係を樹立しようとした。クリミア戦争後にパリで行われた講和会議において、カヴールはイタリア統一問題を提起しようとしたが、英仏は同情的であったものの、イタリア統一がオーストリアのロンバルド=ヴェネト王国を脅かすため2国ともオーストリアを敵に回すつもりはなかった。会議の後、カヴールはナポレオン3世と密談して、確約は得られなかったもののイタリアへの援助国としてフランスが最有力であるとの手応えを感じた。

1858年1月14日、イタリア人のフェリーチェ・オルシーニ伯爵がナポレオン3世の暗殺を試みた。このオルシーニ事件英語版によりイタリア統一運動が広く同情されるようになったが、ナポレオン3世自身も影響を受け、イタリア諸国の革命活動がこれ以上大きくならないようサルデーニャの対オーストリア戦争への援助を決定した。プロンビエール英語版で秘密会談を行ったナポレオン3世とカヴールはプロンビエールの密約で対オーストリア同盟を締結した。サルデーニャ王国がオーストリアから攻撃を受けた場合、フランスはサルデーニャ王国を援助、その代償としてサルデーニャ王国はサヴォワニースをフランスに割譲するとした。サルデーニャにとって、この同盟はサヴォイア家主導でイタリア半島を統一することへの助けになり、フランスにとっては敵国であるオーストリアを弱体化させる好機となる。

カヴールはオーストリアが先に攻撃しなければフランスの援助を得られないため、オーストリア国境近くでサルデーニャ軍を行軍させてウィーン当局を刺激した。オーストリアは1859年4月23日に最後通牒を発し、サルデーニャ軍の動員を完全に解除するよう要求した。それがなされないことを見ると、オーストリアは4月29日にサルデーニャに宣戦布告、フランスが戦争に巻き込まれる結果となった[5]

参加した軍勢

フランスがイタリア戦役に派遣した軍は5個軍団に分けられて合計歩兵17万、騎兵2千、大砲312門であり、フランス軍全軍の半分にあたる。総指揮官はナポレオン3世で、軍団の指揮官は第1から第5軍団の順にアシル・バラゲ・ディリエ英語版元帥、パトリス・ド・マクマオンフランソワ・セルタン・ド・カンロベール英語版元帥、アドルフ・ニール英語版ナポレオン王子だった。近衛兵英語版の指揮官はオーギュスト・レニョー・ド・サン=ジャン・ダンジェリ英語版だった。

サルデーニャ軍は兵士約7万、騎兵4千、大砲90門だった。5個師団に分けられ、それぞれアンジェロ・ボンジョヴァンニ・ディ・カステルボルゴイタリア語版マンフレード・ファンティ英語版ジョヴァンニ・ドゥランド英語版エンリコ・チャルディーニドメニコ・クッチャリイタリア語版が指揮した。義勇兵のアルプス師団英語版とアペニン師団も戦闘に参加した。総指揮官は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世であり、アルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラが補佐した。

オーストリア軍は人数で最多であり、兵士22万、騎兵2万2千、大砲824門を有し、ギュライ・フェレンツ英語版元帥が指揮した。

戦闘

第二次イタリア独立戦争の主な戦場

宣戦布告の時点でイタリアに駐留しているフランス軍はおらず、カンロベール元帥は世界初の軍用列車の大規模使用を敢行して自軍をピエモンテに移動させた。オーストリア軍はフランス軍がピエモンテに到着する前により弱体なサルデーニャ軍を撃破して戦争終結を目指したが、ロンバルディアのオーストリア軍指揮官であるギュライ伯爵は慎重に、ティチーノ川周辺を特定の方向もなしに行軍、やがて渡河して攻勢を開始した。彼にとって不幸なことに、大雨が降り始めてしまい、サルデーニャ軍は稲田を水没させてオーストリア軍の進軍を遅滞させた。

モンテベッロの戦い

やがて、ギュライ率いるオーストリア軍がヴェルチェッリに到着してトリノを脅かしたが、フランス軍とサルデーニャ軍がアレッサンドリアカザーレ・モンフェッラート近くにあるポー川にかかっている橋の守備を強化したことでいったん撤退を余儀なくされた。最初の戦闘は5月20日のモンテベッロの戦いであり、フィリップ・フォン・シュタディオン・ウント・タンハウゼンドイツ語版率いるオーストリア軍1個軍団とエリ・フレデリック・フォレ英語版率いるフランス第1軍の1個師団の間で戦われた。オーストリア軍の人数はフランス軍の3倍だったが、フランスが勝利したため、ギュライはさらに慎重になった。6月初、ギュライは鉄道の中心地であるマジェンタの戦いに進軍したが、オーストリア軍全体としては分散していたため、ナポレオン3世はティチーノ川で攻撃を仕掛けつつ大部隊を北に派遣してオーストリア軍の側面を攻撃、ギュライは東のロンバルディアにあるクアドリラテロ英語版要塞に撤退したのち指揮官を解任された。

ヴァレーゼの戦いではガリバルディが軍を率いた。
サン・マルティーノの戦い

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がギュライに代わって指揮を執り、ミンチョ川の後ろにある守備の行き届いたオーストリア領を守ろうとした。フランス=サルデーニャ連合軍はミラノを占領した後に緩やかながら東に進軍しており、プロイセン王国が介入してくる前にオーストリア軍にとどめを刺そうとした。オーストリア軍はフランス軍がブレシアで停止していることを発見、チエーゼ川英語版沿いで反撃することを決定した。両軍はお互いに気づかないまま接近して、混乱したままソルフェリーノの戦いに突入、1日間の戦闘ののちフランス軍が突破した。またフランス軍の1個軍団がメードレでオーストリア軍3個軍団を足止めしてソルフェリーノの戦いへの参戦を阻止した。ルートヴィヒ・フォン・ベネデック英語版率いるオーストリア第8軍は本軍と離れたポッツォレンゴを守ったが、オーストリア軍がソルフェリーノで敗れた後は全軍がクアドリラテロに退いた[6]

一方、ロンバルディア北部ではジュゼッペ・ガリバルディの義勇兵であるアルプス師団英語版ヴァレーゼの戦い英語版サン・フェルモの戦い英語版でオーストリア軍を撃破、さらにフランスとサルデーニャ海軍がダルマチアに兵士3千を上陸させ、ルッシーノ島チェルソ島を占領した[7]

講和

ドイツ諸国からの介入を恐れたナポレオン3世は戦争終結を目指すようになり、ヴィッラフランカの休戦でオーストリアと休戦協定を締結した。マントヴァレニャーゴ要塞周辺を除くロンバルド=ヴェネト王国がオーストリアからフランスに割譲され、その直後にフランスがこれらの領地をサルデーニャに割譲した。開戦直後に革命がおきて追放された中央イタリア諸国の君主は復位すると定められた。

パレストロの戦いでサルデーニャ軍を率いたマンフレード・ファンティ英語版
フランスのパトリス・ド・マクマオン。彼の参戦が勝利を確実なものにした

ナポレオン3世がサルデーニャを捨てて結んだこの講和はサルデーニャを激怒させ、カヴール自身も辞任した。ヴィッラフランカで定められたことは11月のチューリッヒ条約で再確認されたが、その時にはすでに死文と化していた。サルデーニャは中央イタリア諸国の君主を復位させるつもりなどなく、その領地を占領していて、フランスも条約履行を強要するつもりがなかった。オーストリアは不満を募らせながらもフランスが条約を履行しないことを見ていることしかできなかった。オーストリアは1849年に自由主義運動を鎮圧したが、ヨーロッパの大国としての地位は厳しい挑戦を受け、イタリアにおける影響力も大幅に弱まった。

翌1860年、中央イタリア諸国(パルマ公国モデナ公国トスカーナ大公国)での国民投票を受け、サルデーニャ王国は英仏の許可を受けてこれら諸国を併合し、フランスは遅れてきた謝礼(サヴォワとニース)を受け取った。ニース出身のガリバルディは反発し、両シチリア王国を征服してサルディーニャ王に献上し、イタリア統一運動を成功させることとなった[8]

戦争中、プロイセン王国も1859年に13万2千人を動員したが参戦はしなかった。動員の問題が浮き彫りになったことでプロイセン軍は軍制改革を断行[9]、1866年の普墺戦争と1870年から1871年までの普仏戦争で迅速に勝利を得、プロイセン主導でドイツ統一を成就させることとなった[10]

年表

脚注

  1. ^ "Leopold II (grand duke of Tuscany) – Encyclopædia Britannica". Britannica.com. Retrieved 26 September 2009.
  2. ^ Micheal Clodfelter. "Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500–2000", 4th Edition. 2017. Page 181.
  3. ^ a b Clodfelter, p. 181.
  4. ^ Arnold Blumberg, A Carefully Planned Accident: The Italian War of 1859 (Cranbury, NJ: Associated University Presses, 1990); Arnold Blumberg, "Russian Policy and the Franco-Austrian War of 1859", The Journal of Modern History, 26, 2 (1954): 137–53; Arnold Blumberg, The Diplomacy of the Austro-Sardinian War of 1859, Ph.D. diss. (Graduate School of Arts and Sciences, University of Pennsylvania, 1952).
  5. ^ Second War of Italian Independence, 1859–61”. www.historyofwar.org. 2018年3月30日閲覧。
  6. ^ Administrator. “La Seconda guerra d'indipendenza”. www.150anni-lanostrastoria.it. 2018年3月30日閲覧。
  7. ^ Luigi Tomaz, In Adriatico nel secondo millennio, Presentazione di Arnaldo Mauri, Think ADV, Conselve, 2010, p. 411.
  8. ^ Sapere.it. “La seconda Guerra d'Indipendenza e la spedizione dei Mille – Sapere.it”. www.sapere.it. 2018年3月30日閲覧。
  9. ^ Engels, Friedrich; Preußische Militärfrage und die Deutsche Arbeiterpartei; Hamburg 1865 (Meißner); reprint Berlin 1974 (Dietz).
  10. ^ Lohner, Henry; Wie wird man schnell reich?; Norderstedt 2011; p. 78; ISBN 978-3-8423-7334-1

参考文献

  • Blumberg, Arnold. A Carefully Planned Accident: The Italian War of 1859 (Susquehanna University Press. 1990). Pp. 238.
  • Bossoli, Carlo . The War in Italy: the Second Italian War of Independence, 1859 (1860), illustrated; online free
  • Carter, Nick. "Hudson, Malmesbury and Cavour: British Diplomacy and the Italian Question, February 1858 to June 1859." Historical Journal 40#2 (1997): 389–413. in JSTOR
  • Coppa, Frank J. The origins of the Italian wars of independence (1992).
  • Schneid, Frederick C. The Second War of Italian Unification 1859–61 (Bloomsbury Publishing, 2012).
  • Thayer, William Roscoe (1911). The Life and Times of Cavour vol 1. https://books.google.com/books?id=zfwNAQAAMAAJ  old interpretations but useful on details; vol 1 goes to 1859; volume 2 online covers 1859–62

第二次イタリア独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)

イタリア統一運動」の記事における「第二次イタリア独立戦争」の解説

詳細は「第二次イタリア独立戦争」を参照 1858年1月14日カルボナリフェリーチェ・オルシーニフランス皇帝ナポレオン3世暗殺謀ったオルシーニ獄中から死刑受け入れるが、ナポレオン3世に対して皇帝尊厳満たすためにイタリアのナショナリズム英語版)に手を差し伸べるよう懇願したナポレオン3世この手紙を公開させ、新聞報じられるフランスではイタリア解放求め世論高まった青年時代カルボナリ運動参加した経験のあるナポレオン3世は、イタリア解放運動に対して好意的であり、青年時代理想主義伯父ナポレオン1世イタリア征服倣い偉大な業績挙げたいとする野心、そしてフランス国益などの複合した思惑からイタリア介入決意する1858年7月21日カヴールはプロンビエール(英語版)でナポレオン3世会談しプロンビエールの密約調印し共同オーストリアへの戦争合意した。この協定ではサルデーニャ王国オーストリア領のロンバルド=ヴェネト王国パルマモデナの両公国それに教皇国家のレガツィオーネを併合することになるが、その見返りサルデーニャ領のサヴォワニース割譲することになったトスカーナ大公国教皇領一部加えた上で中部イタリア王国とし、君主ハプスブルク家からフランス皇帝従弟のプランス・ナポレオンに替え南部両シチリア王国現状のままとされた。フランス侵略者非難を受けることなく干渉するために、カヴールモデナ革命運動使嗾してオーストリア挑発することになった。しかし、モデナ暴動不発終わり密約内容が外に漏れたことでイギリス戦争反対意向明確にする。 1859年3月サルデーニャ王国は軍の動員義勇兵募集開始しオーストリアサルデーニャ軍の武装解除要求した緊張が高まる中、ロシアイタリア問題話し合う五大国会議提案するナポレオン3世戦争消極的な態度示し始めカヴール焦燥させた。だが、ウィーン宮廷は既に戦争不可避判断しており、サルデーニャ王国に対して強硬な内容最後通牒発する。これを好都合としたカヴール最後通牒拒絶しオーストリア侵略者見せかけフランス介入できるようにした。 戦争自体はごく短期間のものであったオーストリア軍失策乗じたフランスサルデーニャ連合軍6月4日マジェンタの戦いで、フェレンツ・ジュライ(英語版伯爵率いオーストリア軍勝利しオーストリア軍ロンバルディア大部分からの撤退余儀なくされ、ナポレオン3世ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ミラノ入城した両軍決戦となったのは6月24日ソルフェリーノの戦いである。ナポレオン3世オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ陣頭立った戦闘では、両軍とも3万人近い死傷者出したが、フランスサルデーニャ連合軍の勝利終わりオーストリア軍ヴェネツィア背後にある四角要塞地帯英語版)に後退したソルフェリーノ戦場視察したナポレオン3世犠牲者多さ仰天しヴェネツィア征服するために要する時間犠牲恐れ、また国内からの反対や、プロイセン介入可能性、そして強力になりすぎるサルデーニャ王国への懸念相まってフランスはこの時点講和模索した7月11日ナポレオン3世同盟国サルデーニャ王国伝えことなく、ヴィッラフランカでフランツ・ヨーゼフ会見し停戦合意したヴィッラフランカの講和)。オーストリアヴェネツィア保持するが、ロンバルディアフランス割譲しフランス即座にこの地をサルデーニャ王国譲渡することになったオーストリアサルデーニャ王国直接割譲することを拒んだため)。その他のイタリア国境現状維持となった戦争勃発とともに君主追放されオーストリア逃れていた中部イタリアトスカーナモデナそしてパルマについては各々復帰させ、レガツィオーネ地域における教皇支配回復させることになった。だが、ナポレオン3世プロンビエールの密約条件を満たさなかったため、サヴォイニース獲得することはできなくなったサルデーニャ国民はこの裏切りに激怒したカヴール戦争遂行主張したが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世甘受現実的な選択であると判断したため辞職した。だが、ヴィッラフランカでの仏墺の合意はこれを公式化するチューリッヒ条約11月締結され時点死文化していた。12月トスカーナモデナパルマ、レガツィオーネは中央統合諸州統一されイギリス勧めもあって、サルデーニャ王国との合併表明された。フランス講和反するこの動き圧力をかけたが、1860年1月カヴール首相に復職して交渉にあたりナポレオン3世サヴォイニース割譲条件サルデーニャ王国による中部イタリア併合承認した1月教皇ピウス9世ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をはじめ教皇領侵犯関与した者たち全員破門処し領土の返還命じたが、もはや効果はなかった。各国住民投票が行われ、3月20日併合実施された。この時点で、サルデーニャ王国北部中央イタリアのほとんどを支配した

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