第二次アルジェ砲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 09:38 UTC 版)
「フランス・アルジェリア戦争 (1681年-1688年)」の記事における「第二次アルジェ砲撃」の解説
詳細は「アルジェ砲撃 (1683年)(英語版)」を参照 デュケスネは再びアルジェを砲撃するために出航した。爆撃は6月26日から27日の夜に始まり、24時間以内に22発が発射され300人のアルジェリア人が死亡した。太守ハッサンはなおも抵抗を続けんとしたものの、住民から和平を促された。デュケスネはすべてのキリスト教徒の奴隷の引き渡しを条件に停戦に同意。ハッサンは延長を要請し、デュケスネは以下の条件を定めた上で受容した。 全クリスチャン奴隷の解放 海賊がフランスから押収した全物品の価値に相当する賠償金 海軍に対する敵対行為に対して、ルイ14世の許しを請うための厳粛な使節を送ること この条件を受けて、デイは抵抗を続けることを決意した。 その後、オスマン帝国領アルジェリアの司令官の1人であるメッツォ・モルト・フセイン・パシャ(Mezzo Morto Hüseyin Pasha)が指揮を執り、は、指揮権を握り、フランスとの条約に合意した太守ハッサンを小心者であると非難した。 そして、ハッサンを死刑に処した後、イェニチェリによってメッツォ・モルト・フセイン・パシャはその後継者として称賛された。やがて、アルジェのカスバ(カスバはCasbahを参照、太守の城塞を指す)の高台から掲げられた赤い旗が、デュケスネに戦闘の再開を知らせた。アルジェリア人は、フランス領事のジャン・ル・ヴァシェを大砲の口に縛り付けて、投げつけられた爆弾に対して反撃した。7月28日、ヴァシェの粉々になった手足が、吹き飛んだ他のフランス人捕虜の手足とともにフランス軍船の甲板に落ちてきたという。 アルジェリア人が激しく抵抗したにもかかわらず、街は大規模な火事に巻き込まれ、宮殿、モスク、その他街中の多くの建物を焼き尽くし、負傷者は避難所を見つけられなかった。弾薬が足りていれば、アルジェは廃墟になっていただろうが、爆撃は7月29日に終了した。バルバリア海賊の誇りは粉々に砕かれ、フランス艦隊が帰還すると、アルジェ側はジアファル・アガ・エフェンディ(Djiafar-Aga-Effendi)率いる使節を送り、海賊がフランスに与えた傷と残虐行為の許しをルイ14世に乞うた。 ハッサンに替わってデイとなったメッツォ・モルト・フセイン・パシャは、さらに546人の捕虜の解放に同意したが、当時79歳だったデュケスネとの和平協定締結を拒否したため、ルイ14世は別の使者として先述のトゥールヴィル伯アンヌ・イラリオン・ド・コタンタンを送り、太守と交渉するように命じた。フランスの海岸を無防備にすることなどを盛り込んだ、100年間の和平が合意されたが、5年後にアルジェが条約に違反したため、フランスは再びアルジェを砲撃した。ジャン2世・デストレ提督はデイに新たな和平協定を求め、1688年9月27日に調印。アルジェリア側はこれを尊重した。その後、バルバリア海賊の船長はフランス沿岸部を避けながら他の地域を襲撃し、スペインの沿岸地域に大きな損害を与えた。
※この「第二次アルジェ砲撃」の解説は、「フランス・アルジェリア戦争 (1681年-1688年)」の解説の一部です。
「第二次アルジェ砲撃」を含む「フランス・アルジェリア戦争 (1681年-1688年)」の記事については、「フランス・アルジェリア戦争 (1681年-1688年)」の概要を参照ください。
- 第二次アルジェ砲撃のページへのリンク