和平協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:36 UTC 版)
1997年4月、SPLAを除く反政府勢力4派と政府が和平協定に調印し、1998年5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開したが、一方で、東南部では戦闘が継続していた。 その後、エジプトとリビアによる仲介工作、スーダンと隣国6ヶ国でつくる政府間開発機構 (IGAD) による仲介に加え、スーダンの石油資源に関心を示すアメリカが2002年1月に特使を派遣し、積極的な調停に乗り出した。この結果、7月20日、政府とSPLAは、SPLAが実効支配する南部の帰属をめぐる住民投票を2008年に実施することなどを柱とする和平の枠組みに合意し、27日に、バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官がウガンダのカンパラで初会談をもった。これを受け、8月12日からケニアのマチャコスで包括的和平合意を目指した交渉が再開されたが、SPLAが南部の要衝トリトを武力制圧したことなどを受け中断した。その後、2003年1月に交渉を再開することで両者は合意。曲折を経た和平交渉はようやく翌々年の2005年1月9日になって、21年続いた内戦を終結させるスーダン政府とSPLAの南北包括和平合意(英語版)(CPA)調印に至った。CPAは、6年の間の北部と南部の合体による暫定統一政権、南部に自治政府の設置、5年後の暫定統一政権の首長選挙、6年後の南部の独立の是非を問う住民投票が骨子となっている。
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