和平合意へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:31 UTC 版)
「第1次インティファーダ」の記事における「和平合意へ」の解説
各地で散発するインティファーダの光景は海外メディアにより全世界に報道され、その多くが「石つぶてで圧政者に立ち向かう住民と、それを最新兵器で女子供含め掃討するイスラエル軍」という構図だったため、国際世論がイスラエルを激しく非難し、イスラエル国内からも政府や軍に対する非難の声が挙がった。 一方PLOも、1990年のイラクのクウェート侵攻の際にイラクを支持したため(サッダーム・フセインが自身の侵略行為の正当化のためにイスラエルのパレスチナ「侵略」を持ち出した事などによる)、クウェートやサウジアラビアに支援を打ち切られて苦境に立たされた。さらに湾岸戦争により、さらなる中東の安定化を目論むアメリカがパレスチナ問題に介入し、イスラエル・PLO双方に和平への働きかけを行った。 1991年にはスペイン・マドリードで和平会議が開始された。PLOはイスラエルの拒否により直接参加は叶わず、ヨルダン・パレスチナ合同代表団の形での参加となった。当初イスラエル側はなかなか妥協しなかったが、折しも崩壊したソビエト連邦から大量のユダヤ人労働者が流入した事で支持層を拡大した左派労働党のイツハク・ラビンが政権を奪うと、国際社会の経済援助を目当てに交渉を前向きに進め、1993年にアメリカの仲介でイスラエル・PLO間にオスロ合意が調印され、パレスチナ自治政府が設立された。これによりラビン首相、シモン・ペレス外相、PLOヤーセル・アラファート議長は翌年のノーベル平和賞を受賞した。
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