和平工作のための極秘来日とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 和平工作のための極秘来日の意味・解説 

和平工作のための極秘来日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:34 UTC 版)

高宗武」の記事における「和平工作のための極秘来日」の解説

盧溝橋事件の際に、高宗武和平交渉中に日高信六郎会見をしている。7月25日南京では日高高宗武会見で、国民政府現地協定解決条件黙認する意向である事が明らかにされた。しかし中国側による広安門事件廊坊事件勃発する8月7日船津辰一郎元総領事上海到着すると、9日高宗武会談し華北問題迅速かつ局部的に解決する事が得策であると説得した。高は同日午後に川越大使とも会談し交渉順調に進んでいくかに見えたが、同日夕刻上海大山事件発生すると、事態にわかに緊迫の度を高た。船津各方面奔走し平和的解決向けて中国側説得努めたが、13日には上海日中両軍間に交戦始まり第二次上海事変)、14日には全面衝突発展した日中戦争2年目1938年トラウトマンによる調停トラウトマン工作)が不調に終わった後、いくつかのルートでの日中和平交渉水面下進展していた。「高宗武工作」も、そのうち一つ位置づけられる。 1938年3月5日高宗武は、日本側の和平に関する考え方を探るために、親交のあった松本重治同盟通信社上海支社長)を密かに訪ねた。これをきっかけ高宗武日本和平派と度々接触重ねるようになり、その後、西義顕(満鉄南京出張所長)の強い勧めもあり、高宗武は和平工作のための極秘来日を決意した7月3日高宗武は「エンブレス・オヴ・ジャパン」号にて日本出発。この時、松本重治が「同盟通信社」の自動車密かに高宗武乗せ、「同盟通信!」と大声叫んで歩哨ごまかし日本側の警戒する「ガーデン・ブリッジ」を通過したエピソードは有名である。 7月5日来日その後21日日本離れるまで(来日日、離日日については諸説あり)、高宗武は、影佐禎昭当時参謀本部第八課長)導きにより、近衛文麿首相板垣征四郎陸相今井武夫参謀本部支那班長などの日本要人会談した高宗武は「蔣介石政権存続」を前提として「和平派汪兆銘への支持求めたが、「蔣介石下野」に固執する日本側は、中国の「和平派」の存在過大に期待する結果となった。 この極秘来日蔣介石命令無視したものであったため、高宗武はこれ以降蔣介石不興を買うこととなった

※この「和平工作のための極秘来日」の解説は、「高宗武」の解説の一部です。
「和平工作のための極秘来日」を含む「高宗武」の記事については、「高宗武」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「和平工作のための極秘来日」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「和平工作のための極秘来日」の関連用語

1
32% |||||

和平工作のための極秘来日のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



和平工作のための極秘来日のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの高宗武 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS