全面衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)
「第一次インドシナ戦争」の記事における「全面衝突」の解説
1946年12月19日から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。ベトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部ではダナン、フエ、プレイクを占領した。ヴォー・グエン・ザップを総司令官とするベトミン軍は内陸の農村地帯に退避しゲリラ戦に移行した。 5月、フランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明し強硬姿勢をとった。ベトミンはあくまでフランス本国政府に和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。 1947年10月のリアー作戦では、フランスは機械化部隊15,000人を投入し、北部山岳地帯のベトミン軍拠点ランソンを攻撃したが完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にベトミン軍は守勢を脱し以降は正規軍による積極的反攻にでた。1947年11月29日、フランス軍はミーチャック村虐殺事件を引き起こした。 戦争中、フランスはハノイ・ハイフォン・サイゴンの主要三都市を保持し、ベトミンは農村地帯の大部分を保持した。北部の山岳地帯はベトミンの牙城であり、トンキンデルタと中越国境地帯は一進一退が続いた。中部高原・中部沿岸諸省・南部メコンデルタではベトミンの抵抗は根強く、やがてフランス軍はフエ・ダナン・ニャチャン周辺に狭い橋頭堡を残すだけとなった。
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