全面返還をめぐる動き
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一方、1977年(昭和52年)8月に在日米軍から提示されていた柏ロランC局の運用に係る周波数要求について、郵政省電波監理局は、同年9月及び10月に開かれた日米合同委員会の周波数分科委員会技術連絡部(TLC)会合で、在日米軍に対して要求内容を検討中であることを伝えるとともに、いくつかの困難な問題があることを口頭で説明していた。さらに11月4日の同会合では検討結果として「電磁両立性について非常に多くの問題があり、ロランCを柏で運用するための周波数は承認出来ない」とする内容のメモを提出したため、これを受けて在日米軍はロランC局建設工事の中断を指示した。この時点で工事はオペレーションエリア内の交通検問所、マイクロウェーブ塔とその操作室、通信局舎内の壁や屋上の排熱換気装置などが解体撤去された程度の進捗状況だったが、12月24日には請負業者に対して解約が通知された。 在日米軍は、翌1978年(昭和53年)1月11日に開かれたTLC会合で周波数要求を取り下げる内容のメモを提出したものの、2月3日に開かれた同会合では、「既存のロランCシステムの精度向上が可能な代替案を引続き検討するとともに、その結果次第では新たな周波数支援要求を発議し、柏をロランC施設として利用する」という内容のメモを提出し、建設計画そのものは撤回せず懸案事項として持ち越していることを日本側に伝えた。しかし、最終的に技術・費用の面で問題解消が困難であったことから柏通信所への建設計画は破棄され、翌1979年(昭和54年)2月、全面返還へ向けた手続の開始が日本側に通知された。 返還式は在日米軍から沿岸警備隊極東支部司令官レスパランス大佐以下30名、日本側からは東京防衛施設局長、大蔵省関東財務局長、千葉県知事、柏市長、市議会議員、地権者など120名が出席してオペレーションエリア内で行われ、1979年(昭和54年)8月14日、柏通信所は全面返還された。 その後、柏通信所で建設が中止されたロランC局は韓国の浦項と光州に建設された。さらに、横田飛行場の沿岸警備隊極東支部へ情報を自動送信するモニターが烏山空軍基地と釜山近郊に設置され、1980年(昭和55年)2月1日にロランC局から最初の送信が行なわれた。この時点で周辺施設からの電波障害に関する報告はなかったが、翌月13日、浦項の民間電話システムで発生した混信問題に関する韓国政府閣僚(通信大臣)からの口頭による要請を通じて、当時の在韓米空軍における主要部隊だった第314航空師団(314th Air Division)に電波障害の発生が報告された。これに対処するため、ヒッカム空軍基地の太平洋通信地区は電磁両立性の専門チームを派遣して調査を行ったものの、問題解決には至らなかったことから、同年9月3日、太平洋空軍は空軍通信軍団(AFCC)に支援を要請した。同月18日にはイリノイ州スコット空軍基地から派遣された第1843電子技術群(1843d Electronics Engineering Group)が調査に乗り出すとともに、太平洋通信地区の専門チームや韓国政府の関係省庁代表を交えた会合が開かれ、対応策について協議が行なわれた。韓国側は電話システムの標準規格を維持する上で支障が起きることを憂慮し、整備や試験のための追加設備を要する修正措置の受け入れに難色を示したため、アメリカ空軍は修正の規模を最小限に留める解決策として、72~120kHzの周波数帯域を空け、120~168kHzの帯域へ移すことを提案した。韓国側はこの提案が電波障害の除去に十分なものか調べるためのテストをアメリカ空軍の費用負担において実施することで合意し、当初の計画案から数年遅れでコマンドー・ライオンは本格的に運用されることとなった。なお、アメリカ軍は新たに導入した衛星測位システム(GPS)の普及に伴い、1992年(平成4年)に北西太平洋ロランCチェーンの全廃を決定し、沿岸警備隊極東支部が運用していた日本のロランC局は翌年から海上保安庁へ移管された。
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