建設工事
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建設工事(けんせつこうじ、英語: Construction work)[1]とは、主に建築及び土木といった建設事業に関しての工事。
注釈
- ^ 「修繕工事」という語が用いられていても、当該役務提供が建設業法上の建設工事に該当しない場合、当該役務に対して建設業法は適用されない。
出典
- ^ “建設工事 英語 - Google 検索”. www.google.com. 2021年9月3日閲覧。
- ^ 総務省統計局. “労働力調査産業分類内容例示 平成28年1月~”. 2021年8月25日閲覧。
- ^ 例のひとつとして 建設工事積算基準 島根県
- ^ 浜田成一, 杉原栄作, 貝戸清之 ほか、社会基盤施設の維持・修繕工事における専門工事企業の役割と制度設計 『土木学会論文集F4(建設マネジメント)』 2016年 72巻 3号 p.84-101, doi:10.2208/jscejcm.72.84
- ^ a b 国土交通省. “建設工事への工場製品の一層の活用に向けた環境整備について”. 2022年6月9日閲覧。
- 1 建設工事とは
- 2 建設工事の概要
- 3 建設工事費とその構成
建設工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 19:49 UTC 版)
先進抗は飛島建設・鉄建建設JVが担当し、TBM「天生太郎」の設計製作は三菱重工業が担当した。籾糠山はそれまでトンネルの掘削例がなく、ボーリング調査もほとんどうまくいかなかったためまさに「蓋を開けてみるまでわからない」状態で工事が開始された。当初より難工事が予想されていたため、工事入り口部には「臥薪嘗胆」の文字が掲げられた。この難工事の一連は、飛島建設が動画にまとめて公開をしている。 最大土被りは1,000 mを超え、水圧は5.4 MPa(55 kgf/cm2)、最大湧水量は毎分70 tになるなど青函トンネル以上の数値となり、刻々と変わる地盤と相俟って建設開始当初の予想を超えた難工事となった。その過酷さを証明するかのように投入されたトンネル掘削機(先進坑に直径4.5 mの「天生太郎(フルシールド型)」、本坑用に同12.84 mの「夢天生2000(改良オープン型)」)のうち「天生太郎」については幾多の水抜坑を設置しカッター部分を改良しながら掘削を進めてきたが、貫通まで残り310 m地点で土圧により圧壊して停止してしまった。シールド部分が破壊されもはや修復不可能の状態であった。 その後、今後の掘削に関する委員会が開かれ、トンネル掘削機が使用できなかった箇所はNATM工法による掘削を行った。なお、天生太郎の側壁部分はトンネルの一部としてそのまま残される事となった。この天生太郎が掘り進んだ避難坑の掘削データにより本坑の夢天生2000も軟弱地盤に埋もれるなどしたが、危険に阻まれながらもなんとか掘り進んだ。その夢天生2000も貫通後に、天生太郎とほぼ同じ場所で土砂に埋もれてしまい、外殻がトンネルの一部分として山中に残されている。 本坑は大成建設・西松建設・佐藤工業JVが担当し、TBM「夢天生2000」の設計製作は三菱重工業・川崎重工業・コマツ・日立造船JVが担当した。本杭貫通後再び貫通点での崩落など異常事態が発生し、それが付帯工事の遅れにも波及してしまう。その結果、現場の切実な声に中日本高速道路株式会社は2007年度(平成19年度)末としていた開通時期を変更せざるを得ない状況になってしまった。 なお、本トンネルは入口間の高低差が約214 mあり、白川村側から飛驒市側へ2 %の上り勾配である。施工時の排水や、飛驒市側坑口の交通が不便であったことを考慮して当初は白川村側からのみの掘削予定であったが、前述の難工事ゆえ迎え掘りの必要に迫られ飛驒市側から下り勾配での突っ込み施工を急遽行ったため両側での掘削開始時期が異なっている。 前述の通り当初の開通予定(当初は2005年に愛知県で開催された愛・地球博前の完成を予定していた)より3年9か月(延期後の開通予定からも更に3か月余り)遅れての開通となった。総事業費は約1,000億円。 これら一連の土木史上稀に見る難工事にもかかわらず、同様に難工事であった青函トンネルや安房トンネルと異なり死亡事故0を達成している。
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建設工事
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2016年2月に土壌調査が行われた。2016年4月20日には起工式が行われ、当時大統領だったベニグノ・アキノ3世が出席した。アーサー・タゲード運輸長官によると、MRT7号線は2019年第4四半期までに完成する予定となっている。 2017年8月15日に着工し、ケソン市のコモンウェルス通り(英語版)とキリノ高速道路(英語版)では車線規制が行われた。この影響により、同道路にて交通渋滞が発生した。また、ノース・アベニュー駅とケソン・メモリアル駅の建設において影響を受けるスクオッター(不法占拠者)は、タナイ、リサール、ブラカンに移された。 2017年10月7日にバタサン駅の起工が行われ、2017年11月現在、ケソンメモリアルサークルの地下で掘削作業が進行中である。また、2018年1月22日にはノース・アベニュー駅と線路の建設が開始された。 2019年1月には、エリプティカル道路(英語版)およびケソン通り(英語版)での掘削工事が原因による深刻な交通渋滞を引き起こしたとして、マニラ首都圏開発庁はEEIに対し25,000フィリピン・ペソの罰金を科した。 当初、2020年に全区間が開通する予定であったが、土地収用問題などで着工が大幅に遅れているため、サン・ミゲルとフィリピン政府は、2021年までに一部区間を優先して開通させることで合意した。なお、2022年に全区間が開通する予定である。 土地収用問題で車両基地の建設が延期されていたが、2019年11月26日に着工された。建設地は計画当初のブラカン州サン・ホセ・デル・モンティからマニラ首都圏ケソン市へ変更された。
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建設工事
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建設費用は1700万カナダ・ドル (約16億9500万円 )で、そのうち半分の850万ドルはモントリオール・インパクトのオーナーであるサプト家によって賄われ、残りは個人から寄付金によって賄われた。現在スタッド・サプトは、モントリオール・インパクトの球団事務所だけでなく特別室や選手のための福利厚生施設も備わっている。施設の総面積は約1,600,000平方フィート (150,000 m2)である 現在主としてモントリオール・インパクトがしているが、地元のクラブにも門戸を開放している。スタジアムは天然芝を敷き詰めていることから、あるサッカーカナダ代表のメンバーは人工芝に覆われているBMOフィールドよりも優れているというほどである。 モントリオール・インパクトのMLS参入に先立ち、収容人数を13,404人から20,000人に拡張することとなった。 モントリオールが、2012年シーズンから19番目のフランチャイズとして認められるための計画であった。
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建設工事
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中央停車場以北の建設については日本鉄道側の予算事情などによって先送りされることになり、まず官設鉄道の中央停車場以南の高架線が建設されることになった。この高架橋は複々線(4線)として建設され、そのうち2線を電車線と呼んで山手線と京浜線(後の京浜東北線)用に、もう2線を列車線と呼んで東海道本線と横須賀線用に用いることになった。1899年(明治32年)の地質調査から開始され、翌1900年(明治33年)に5つの工区に分けて着工した。しかし同年の義和団の乱(北清事変)や1904年 - 1905年の日露戦争など、戦乱による工事の中断が相次いだ。日露戦争後工事は再開され、さらに鉄道国有化により東京中心部の主要な鉄道はすべて国の手に帰したことから東京の鉄道網全体を国が責任を持って整備する体制が整った。1907年(明治40年)9月には煉瓦アーチ橋が、さらに1910年(明治41年)9月には架道橋の部分がそれぞれ全面完成した。この完成した高架線を利用して、山手線の電車が1909年(明治40年)12月16日に品川から烏森(後の新橋)まで、1910年(明治41年)6月25日に有楽町まで、そして9月15日には現在の永代通りに面して建設された仮駅の呉服橋まで開通した。東京駅が完成するまでのおよそ4年間、山手線の電車はその工事中の構内を通り抜けて呉服橋駅に発着していた。 中央停車場については、1902年(明治35年)7月から高架橋の工事がまず始められた。駅舎についても、1908年(明治41年)3月25日に基礎工事が開始された。この時点で駅舎の設計そのものはすべて完了していなかったが、上部構造の概要が固まっていたことや、1912年(明治45年)に東京で万国博覧会を開く計画があったことなどから、当局が工事速成を要望して設計完了前に着工されたものとされている。ただし博覧会については予算の超過や準備の遅延から結局中止となっている。 工事監督は金井彦三郎、基礎工事の指揮は今村信男、建築工事の指揮は小笠原鈅が担当した。建設を請け負ったのは関西を地盤とする当時新興の建設業者大林組で、指名競争入札により落札した。大林組としては、大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道(近鉄))の生駒トンネルの工事と並んで、社業を発展させる二大工事と称された。大林組の工事は大変入念で、完成後に練達の検査官が検査をしても1つも欠点を発見できないと舌を巻いたほどで、鉄道院から褒状が送られている。基礎工事としては地表から3.6 mまで掘削したところに3.6 - 7.2 mの長さの松杭を60 cm間隔で合計11,050本打ち込み、その上に厚さ1.2 mの基礎コンクリートを打ち、さらに平鋼と丸鋼を格子状に並べたうえで再びコンクリートを打って完成させた。松杭は青森営林局から調達したもので、また鉄骨柱を建てる場所に礎石として配置した花崗岩は茨城県稲田産のものであった。鉄骨は一部八幡製鐵所(現:日本製鉄)製の国内産の他、イギリスおよびアメリカからの輸入鋼材が使用され、石川島造船所(後の石川島播磨重工業・現:IHI)が製作・組立を請け負った。1909年(明治42年)10月1日から1911年(明治44年)7月31日にかけて鉄骨の製作が行われ、現場での組み立ては1910年(明治43年)8月1日着工、1911年(明治44年)9月12日完成となった。使用された鋼材は約3,500トンに達する。壁体および床は1911年(明治44年)4月20日着工、1913年(大正2年)5月18日完成となった。煉瓦は構造用に日本煉瓦製造製のものを約767万個イギリス積みで、化粧用に品川白煉瓦製のものを92万7000個小口積みで使用し、目地の仕上げは覆輪目地とされている。他に、腰回り、入口、窓枠、車寄せ、馬車回り、柱形装飾などは花崗岩と擬石漆喰塗を混用した。皇室用の部屋は寄木張り、大理石敷き、白木格天井などで仕上げたが、一般用の部屋は1階に敷瓦・人工石敷・アスファルト敷、2・3階にコンクリート上に木造床、天井は漆喰塗などとなっている。屋根は銅板葺およびスレート葺で、スレートには宮城県雄勝産の約32万枚を用いている。南北の八角形大広間のドーム天井には、鷲の像や十二支をモチーフにしたレリーフ、兜や鎧など日本的なモチーフをデザインした装飾などが取り付けられている。電気工事、給排水工事、暖房工事などを含め、1914年(大正3年)12月15日に竣工となった。基礎工事の着手から6年9か月かかったが、設計が完了する前に基礎工事を始めてしかもそれが順調に進んだことから、基礎工事完了後設計が完了して建物の鉄骨組み立てが始められるまで1年1か月あまり工事が中断しており、実質的な工事期間は5年7か月あまりであった。 完成時の東京駅本屋は地上3階、地下1階建、建築面積約7800平方メートル、延べ床面積約2万3900平方メートルで、高さは地盤からドーム上面まで約34.8 m(避雷針を除く)、中央部の軒高は約16.7 m、長さは約335 mであるが南部の斜めに折れ曲がっているウィングを除くと約270 mであった。使用した材料は煉瓦926万6500個、セメント2万8843樽、花崗岩8万3395切、鉄材3500トン、木材1万8200尺、松丸太1万1050本に上った。作業員は延べ74万7294人で、1日平均300人強が働いていたがもっとも現場が忙しい時期には1000人近くが働いていた。工事中に4人が転落事故で亡くなっている。工費は「東京停車場建築工事報告」で集計の時点で282万2005円で、その当時工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達した。正面から向かって右側(南側)の八角大広間は乗車口で、出札口、一等待合室、一二等婦人待合室、二等待合室、三等待合室、手荷物一時預所及鉄道案内所、小手荷物受取所、食堂、駅長室及事務室などが設置され、また駅舎背面の付属建物の中に一二等用便所洗面所、三等用便所洗面所、公衆電信電報郵便取扱所、物品販売店などが置かれていた。一方正面から向かって左側(北側)の八角大広間は降車口で、待合室、婦人待合室、小手荷物交付所、手荷物一時預所及鉄道案内所、公衆電信電話所、小手荷物倉庫、駅舎背後の付属建物に便所が置かれていた。中央部の皇室口の中には玄関広間、広間の両側に2か所の待合室、休憩室、また階段の上にも待合室が2室用意されていた。この皇室口の北側に隣接して電車用の降車口(電車降車口)がある。また左右それぞれ1か所ずつ、駅舎を貫通して背後に到達する車道があって、資材の搬入に使えるようになっていた。南側の車道の脇に東京ステーションホテルの入口があり、中央より南側の2階・3階はその客室などに使われていた。中央より北側の2階・3階および1階の大半は駅務室であった。地下室は北側と南側にあり、暖房用や給湯用のボイラーがあり、南側にはこの他に調理室、洗い場、食品保管庫などが設けられていた。 プラットホームは丸の内駅舎側に電車発着用の2面、八重洲側に列車発着用の2面が用意された。このうちもっとも西側(丸の内駅舎側)の電車用1面のみ幅が30尺 (9.1 m) で、他は40尺 (12.1 m) 用意された。当時としては非常に広いプラットホームで、これは天皇行幸時の歓送迎の儀式に必要な大きさから決められたものであった。長さは電車用が492尺 (149.1 m)、列車用が775尺 (234.8 m) あった。乗車口・降車口・電車降車口と結ぶ3本の通路が高架下に通り、またこれとは別に皇室口から特別通路が設けられていた。さらに手荷物運搬用の通路や、東京中央郵便局と連絡する郵便物運搬用の地下通路なども設けられていた。この他構内には客車用の留置線、洗浄線、検査修繕設備、機関庫などが配置されていた。駅舎や高架線、プラットホーム、通路などを含めた中央停車場の総工費は407万1210円と集計されている。 皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎の中央に皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家の中心駅」「天皇の駅」としての位置づけが強く打ち出されたものとなった。それは、利便性を無視して乗車口と降車口が200 m以上も離れたところに配置され、さらに当時の東京市街の繁華街であった日本橋に近い八重洲側には出入口が設けられなかったことにも表れていた。これは当時としても批判を招き、当時新進の建築家であった遠藤新は、皇室口が中央にあるために建物内の有機的な連絡を欠き、各部分が自己主張をしてまとまりがないと痛烈な批評を加えている。実用性を無視した設計は、東京駅の利用客の急増が予想をはるかに上回るものだったとはいえ、完成して十数年で駅の機能が行き詰まることにつながり、以降絶えず改築工事が続けられるということになった。これは1937年(昭和12年)完成の名古屋駅が完成後60年以上にわたって大きな手を加えずに供用され続けたことに比して、少なくとも駅舎としての東京駅は失敗作との評価がなされている。 丸の内駅舎のドームの天井、完成時 乗車口(丸の内南口)の広間 一等待合室 皇室用通路 皇室用待合室
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建設工事
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以後は日本発送電によって建設が進められたが、折からの戦争に伴う資材不足と冬はマイナス40℃にもなる酷寒に悩まされ(この地域は日本で最も極寒の地域でもある)、多くの建設従事者が犠牲になりながらも1943年(昭和18年)に雨竜第二ダムと共に完成した。だが建設に際しては、連合国軍捕虜が強制労働を強いられたほか、アジアからの多くの出稼ぎ労働者等も同様の劣悪な環境で従事せざるを得なかった。建設に従事した労働者は延べ600万人と言われ、一日当たりでは最大7,000人が労働に従事したと伝えられる。その殆どは過酷なタコ部屋労働であり、更に約3,000人に及ぶアジアからの出稼ぎ労働者が建設に従事したともいわれる。正確な状況は現在も不明であるが、多数の労働者が過酷な労働と厳寒の気候に耐えられず犠牲となった。湖畔に程近い場所に建つ光顕寺に当時の犠牲者の位牌や遺品が史料パネルとともに展示されている。
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建設工事
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1988年、アルジェリア政府が、二つの国有企業の建設契約を認可する。工事は始まるものの、中断も余儀なくされ、四つの駅の区間を掘り進むのに15年かかってしまう。アルジェの地盤を掘ることについて、比較的困難というのが一つの理由である。2003年より、本格的工事が行われる。ドイツのシーメンス社やスペインのCAF社の技術協力がなされる。2008年に、営業開始予定が設定されていたが、延期される。
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建設工事
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工事は1927年(昭和2年)2月1日にアース線の埋設から始まり、高さ250mのアンテナ鉄塔8本、局舎の建設、送信器材の設置等が行われた。建設資材運搬のために三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線)小垣江駅から現地までの約2.4kmに専用鉄道が敷設された。58,000トンの資材運搬が予定され、運搬終了後に鉄道は撤去された。送信機はテレフンケン式高周波発電機(送信機)が採用され、ドイツから輸入された。建設予算は550万円だった。この費用は第一次世界大戦によるドイツからの賠償金が充てられたと言われることがあるが、無線機購入費用の一部に当てられたに過ぎない。また,ドイツからの賠償によって青島から移築されたという説もあるがその根拠はない。
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建設工事
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本橋梁は、2006年(平成18年)3月18日に着工した。当初の計画では2013年(平成25年)3月の竣工を予定していた。当初、主航路部は鋼中路アーチ橋を計画していたが、2007年(平成19年)に行われた耐風検討委員会の風洞実験で耐久性に問題があることが判明した。主航路部橋種検討委員会にて再検討した結果、2008年(平成20年)に鋼床版箱桁橋に変更した。同部分の実施設計が1年遅れたため、完成は当初計画から1年遅れの2014年(平成26年)3月となった。 2012年(平成24年)6月、主航路部の中央径間を架設するための大型起重機船(フローティング・クレーン)が台風の影響を避けるために兵庫県の母港へ帰港し、気象条件から宮古島に再度呼び戻すのは2013年(平成25年)4月ごろになる見込みとなった。このため、完成はさらに10か月ほど遅れ、2015年(平成27年)1月ごろとなった。 2006年(平成18年)3月18日 - 伊良部大橋に着工。 2010年(平成22年)5月23日 - 上部工セグメントの架設が延長1,000 mに到達し、達成記念式が開かれる。 7月13日 - 海中道路部で整地作業をしていたパワーショベルが操縦を誤って海中に転落する事故が発生(着工以来初の事故)。 2011年(平成23年)4月15日 - 平良久貝側に建設中の伊良部大橋の見学施設「伊良部大橋見学ステーション」が開館。 2012年(平成24年)4月 - 宮古島側および伊良部島側の主航路部の箱桁の架設。 2013年(平成25年)4月 - 中央部の箱桁の架設。 2014年(平成26年)6月30日 - 上部工セグメント最終生コン打設式。 9月9日 - 伊良部島側と宮古島側がつながる「上部工連結式」が行われた。 工事中の伊良部大橋 2007年(平成19年)7月仮桟橋・宮古島から撮影 2009年(平成21年)7月伊良部島から撮影 2009年(平成21年)7月伊良部島・牧山展望台から撮影 2012年(平成24年)8月伊良部島・牧山展望台から撮影 2012年(平成24年)9月宮古島・伊良部大橋見学ステーションから撮影 2014年(平成26年)8月伊良部島・牧山展望台から撮影 2014年(平成26年)8月宮古島・伊良部大橋見学ステーションから撮影
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建設工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 23:06 UTC 版)
詳細は「建設工事」を参照 現在において、建築工事と土木工事は、企業や管轄行政、法律において重複したり区分が違う場合がある。 鉄塔などである高さが備わるもの、ダムなどに備わるエレベーターシャフトや排水機場の施設建屋、衛生管理処理施設(汚水処理場など)、樋門の管理建屋など、また地下街など、屋根がついていて、人が中に入ることができる工作物に関しては、建築基準法による「建築物」にあたるため、工事区分や行政の取り扱いは土木工事であっても、また土木構造物の範疇であっても一定の規模なら建築確認申請が必要になり、建築士が設計に当たる必要がある。土木構造物の設計自体は建設コンサルタントが担当する。工事区分や行政の取り扱いは土木工事である。また基礎工事は建築、土木ともに重要でありほとんど全ての工事に伴うが、工事区分としては土木工事である。 建設業法による建設工事区分 詳細は「建設業#建設工事の業種一覧」を参照
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建設工事
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「笹子トンネル (中央本線)」の記事における「建設工事」の解説
下り線入口(大月側) 下り線出口(甲斐大和側) 中央東線の八王子 - 甲府間は全部で21の工区に分割して工事が行われ、多くの工区は請負によることにしたが、途中の難工事が予想される区間は一定の条件に基づく請負が難しかったこともあり、その前後の区間や付帯工事を含めて直営で工事を行うことにされた。笹子トンネルは中央東線第16工区に属していたが、やはり難工事が予想されたことからこのトンネルと前後の区間のみ直営工事とされた。八王子に出張所を設置以来、所長は技師の古川阪次郎が務め全般の監督を行ったが、笹子トンネルに関しては勝沼に派出所がおかれ、当初は岡村初之助が、1897年(明治30年)10月から小川東吾が、1899年(明治32年)3月から岸金三郎が工事の監督を務めた。1902年(明治35年)4月からは勝沼派出所が廃止されて八王子出張所直轄となった。また山本信要が現場監督を務めた。 1896年(明治29年)12月9日に着工となった。東口は笹子川から坑口に至るまで約5チェーン(約100 m)を切土とする工事から始め、本坑掘削に着手したのは12月22日となった。一方の西口では、日川の断崖に面していてそのままでは掘削ができないため、12月9日より本坑に取り付くための横坑を掘削した。この横坑は下り列車に対して左側(西側坑口を外から見ると右側)にあり、本坑と42度55分の角度で全長172フィート5インチ(約52.6 m)を掘削して1897年(明治30年)1月15日に本坑に到達し、そこから西側坑口へ222フィート(67.7 m)戻って2月29日に日川の断崖へ到達した。これ以外には斜坑や立坑を用いて取り付くのに適当な谷筋などがなかったため、両側からの掘削のみに頼って工事が行われた。 工事は頂設導坑を先進するという日本式の建設工法が採られた。これは最初に掘る導坑をトンネルの天井付近に位置させ、そこから下へ向かって切り広げていくものであった。当時一般的には底設導坑先進が採られており、この方法だとずりの積み込みや運搬が容易であるという利点があるのに対して、頂設導坑先進ではその利点がないばかりか、下へ向かって切り広げを行うたびにずり輸送のトロッコの線路を敷き直さなければならないという欠点があった。これにもかかわらず頂設導坑先進を採用した理由は明確にはなっていない。まず天井付近の中央に導坑を掘り、その後第1切り広げとして両側へ広げ、第2切り広げで中段まで全体を掘り下げ、第3切り広げで底部中央を掘り、その後排水溝を中央に掘削した後、第4切り広げで底部両側面へ掘るという順序で工事が行われた。その後、排水溝部分の煉瓦や石畳を構築し、側壁の煉瓦積みを行い最後に上部のアーチの覆工を行った。 掘削は、1フィートから2フィート程度の穴を掘ってそこにダイナマイトを詰め、発破を行って岩石を破砕していく方法が採られた。ダイナマイトを詰める穴の掘削は当初は手掘りで、後に削岩機を導入したがほぼ導坑のみに使用し、その後の切り広げは依然として手作業に頼っていた。 坑内における作業員の避難所として、マンホールを2チェーン(約40 m)おきに合計115か所、下り列車に対して本線左側に設置した。また両側坑口から3100フィート(約945 m)、5600フィート(約1,707 m)、および中央点の合計5か所は大マンホールとした。工事中は監督員の仮詰所を設置したり、工事資材の倉庫として利用したりした。また将来的に複線化を行う際には、これらのマンホールのうち12か所から横坑を掘削して同時に着手することで、工期を2年程度に短縮することも考えられていた。 工事中、1897年(明治30年)7月から8月にかけて山梨県内において赤痢の流行が発生し、特に笹子側にあたる北都留郡の流行は激しかった。人夫の感染予防に努めて工事を中止することは無かったが、それでも一時的に作業員の数が減少して工事の進捗に影響が出た。また1898年(明治31年)には不況の影響で予算が減額され、導坑から第3切り広げまでの工事のみを行って第4切り広げおよび覆工の工事は中断することになった。翌1899年(明治32年)には状況が回復して第4切り広げ以降の作業の進行改善に努めたが、この遅れにより多少の重複作業が発生するなど効率に影響を及ぼした。
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建設工事
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「ロンドン・アンド・クロイドン鉄道」の記事における「建設工事」の解説
建設費は当初18万ポンドが想定されていたが、実際には3倍以上の61.5万ポンドを要した。費用増の主な原因はニュー・クロスとフォレスト・ヒルにおける掘割である。 線路幅は4フィート8.5インチ(1,435mm)の標準軌が採用された。建設の際には9フィート(2,743mm)や7フィート(2,134mm)の広軌も検討されたが、実現には至らなかった。 ロンドン・ブリッジではL&GRの北側にL&CR専用の駅が設置され、コーベッツ・レーンで合流した。1839年6月、晴れて路線は開業し、途中駅としてニュー・クロス(現ニュー・クロス・ゲート(英語版))、ダートマス・アームズ(現フォレスト・ヒル(英語版))、サイデンハム(英語版)、ペンジ(英語版)、アナーリー・ブリッジ(現アナーリー(英語版))、ジョリー・セイラー(英語版)が設置された。
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建設工事
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「ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の記事における「建設工事」の解説
線路はトゥーリー・ストリートと平行に走り、ブルー・アンカー・ロード、コーベッツ・レーン、グランド・サリー運河(英語版)を横切っていた。そこから最初の駅であるデットフォード・ハイ・ストリート駅(英語版)に向かってカーブし、グリニッジへと向かった。なお、建設工事はヒュー・マッキントッシュ(英語版)が担当した。 下層部が泥炭層となっており、ランドマンは世界に先んじて基礎の補強にコンクリートを用いた。それでもコーベッツ・レーンに近いいくつかの橋脚は垂直から4~5インチ(100~125mm)もずれてしまい、1836年1月18日にはトゥーリー・ストリートに近い2つのアーチが崩壊した。なお他の場所ではレンガの横方向の広がりを防ぐために鉄製のタイが使われた。さらに1840年には多くのアーチの上に9インチ(230mm)のコンクリートを敷き、その上にアスファルトを重ねて改良した。 デットフォードとグリニッジの間にあるデットフォード・クリークでレイヴンスボーン川(英語版)を渡った。この橋はマスト船が下を通れる構造になっており、8人で操作が行われていた。しかし基礎が不安定だったため1884年と1963年の2回架け替えが行われた。 当初は、石のブロックや枕木に固定された4フィート8.5インチ(1,435mm)の標準軌を使用した単線が敷かれていた。1840年までは様々な種類の線路が混在していた。また当時のレールは騒音がひどく、構造物や車両に悪影響を及ぼしていた。またデットフォード - グリニッジ間の高架橋では当初縦材に4フィート間隔で横木を敷いたレールが使われていた。この時デットフォードでは4分の1マイル(400m)に渡って重さ78ポンドの新しいダブルパラレルレールが木材の枕木に敷設されたと思われる。その後このコンクリート基盤はバラスト軌道に置き換えられた。
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建設工事
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「クレイトン・トンネル」の記事における「建設工事」の解説
1830年代、ロンドン・アンド・ブライトン鉄道はグレートブリテン島南部に鉄道網の起点を作ることとなった。のちにブライトン本線(英語版)として知られるこの路線工事における難所はサウス・ダウンズ(英語版)の丘陵地帯であり、これを通過するためにクレイトン・トンネルが掘られた。他のルートも検討されたがトンネルを使わないルートは大幅な迂回を必要としたため、鉄道会社の主任技師だったジョン・アーペス・ラストリック(英語版)はトンネルによる通過を選択した。 1839年、トンネルの建設工事は運河トンネルの設計経験を豊富に持つウィリアム・フーフに任され、そのデザインも彼が担当した。伝えられるところによると、このトンネルの建築はクレイトン・マナーに住んでいたウィリアム・カンピオンが設計したハーストピアポイント(英語版)のダニー・ハウス(英語版)の影響を受けているという。誰がどのようにして設計したかはともかく、クレイトン・トンネルの設計案は1840年10月1日に取締役会で承認された。このプロジェクトに批判的な意見がなかった訳ではなく、地元紙ブライトン・ガーディアンは、トンネル工事の実現性に懐疑的でかつ完全な迂回が本当に必要なのか疑問を呈した。一方で、その技術的な難しさを認識しつつも関係者の能力を認める報道も存在した。 建設工事中は近くの土地を購入して材料を集め、その場でレンガを製造した。そのためトンネル内壁と入口構造物の大部分は、この地元産のレンガでできている。またトンネル内にガス灯が設置されているのが特徴で、ガスはマースタム(英語版)の蒸留器から供給された。これは、列車の乗客を楽しませるためのものだったが、列車の通過によって照明が消えてしまいトンネル管理人が常に再点灯しなければならなかったため、すぐに使われなくなった。
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「建設工事」の例文・使い方・用例・文例
- 先月に全ての建設工事が完成しました
- その建設工事は進んでいるでしょうか。
- 建設工事の第一段階は終わった。
- 新線の建設工事は大いに進捗している
- 建設工事で使われるブロックの材料
- 公益事業関係の建設工事の財源として発行される債券
- 土木建設工事に伴う騒音や振動
- 停泊用施設の建設工事を施した港
- 鳶人足という,土木建設工事に従事する職業
- 鳶人足という,土木建設工事に従事する人
- 建設工事を行うことを職業とする家
- 建設工事を行うことを職業とする人
- モーターグレーダーという,建設工事用の車両
- それらは建設工事中に歩道から取り外された後で奪われたのだ。
- 先日,バチカン(ローマ教皇庁)にあるパウロ6世オーディエンスホールの屋根に太陽電池パネルを取り付ける建設工事が終わった。
- 八田さんは台湾の南西部にある嘉(か)南(なん)平野での灌(かん)漑(がい)建設工事のプロジェクトを担当していました。
- このユニークな解決策は追加の建設工事が必要ないので,とても費用効果が高い。
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