トンネル掘削
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「スタラグ・ルフト III」の記事における「トンネル掘削」の解説
地震計測用マイクロフォンによる探知を防ぐためにトンネルはかなり深い、地表から約30フィート (9 m)下に掘られた。このトンネルは非常に小さなもので僅か2フィート (0.6 m)四方しかなかったが、各トンネルには空気ポンプの収納場、作業場と中継地点として大きな空間が掘られた。トンネルの砂礫質の壁面は、収容所中から集められた木板で補強された。木板の主要な供給元は捕虜のベッドであり、当初1床のベッドは20枚の底板でマットレスを支えていたが、脱走の実行時には僅か8枚程が残されているだけとなっていた。木製の家具からも数多くの木板が集められた。 その他にも様々な物が集められた。その一つが赤十字社から捕虜宛に支給された元々は粉ミルクが入っていたブリキ製のクリム缶であった。缶の金属は、様々な種類の工具やシャベル、ろうそく立てのような物に仕立て上げられた。ろうそくは収容所で出されるスープの表面に浮いた脂肪を濾し、小さなブリキ容器に入れて作り、ろうそくの芯には古く擦り切れた布地を利用した。しかし、クリム缶の主要な用途は3つのトンネル全てで広範囲に設けられた換気用ダクトへの利用であった。 トンネルが長くなるに連れ、作業を容易且つ安全に行えるように数多くの技術発明がなされた。ある重要な課題は、掘削作業者が呼吸し、その灯火を灯し続けるだけの十分な酸素を送り込むことであった。第37飛行隊のボブ・ネルソン(Bob Nelson)少佐の発明によるダクトを通じて新鮮な空気をトンネル内に送り込むポンプが製作された。ポンプの製作には、ベッドの主要部材、ホッケー・スティックや雑嚢といった奇妙な品がクリム缶と共に使用されていた。 後には電灯が設置され、電気は収容所の送電系統から拝借していた。掘削作業者は、より迅速に土砂を運べるように小型のトロッコもトンネル内に備え付けた。このトロッコは、12カ月間に凡そ140 m3(200トン)の土砂を運び出す重要な要素であり[要出典]、掘削作業者が掘削現場に到着するまでの時間を短縮することにもなった。 捕虜は3本のトンネル分の土砂を捨てる必要があった。土砂を捨てるためにとられた通常の方法は、そっと地面に撒き散らすだけであった。古い靴下で作られた小さな袋が捕虜のズボンの内側に取り付けられていた。捕虜は歩きながら土砂を地面に撒き散らし、時には収容所内で栽培を許可された小さな菜園に捨てた。2人の捕虜が普通に会話をしながら一人が地表を掘り返し、もう一人が土砂を捨てた。捕虜は土砂入りの靴下でできる膨らみを隠すために外套を着ており、その様子が動物を思い起こさせるためペンギンと呼ばれた。25,000回に上ると思われる土砂捨て散歩のために200名以上の捕虜が募集された。 ドイツ側は何か重要な事態が進行していることに気付いていたが、トンネルを発見しようという全ての試みは失敗した。脱走計画を諦めさせる試みも行われ、計画に関わっている容疑の強い上位19名が予告なしにスタラグ VIII-Cへ移送された。しかし、この中でトンネル掘削に深く関与していたのは僅か6名であった。 ドイツ側がこの手法で土砂を捨てる捕虜を非常に的確に見逃さないようになってきたため、最終的に捕虜はこれ以上同様の方法で土砂を捨てることはできないと感じていた。「ディック」の出口になる予定の地点に収容所の拡張部分が建てられるとこのトンネルを埋め戻す作業が始められた。埋め戻しに使われた土は、他の2つのトンネルから出た土砂である。このため土砂の問題はしばらくの間は起こらなかった。トンネルの入り口は非常に巧妙に隠されていたため、「ディック」は地図、切手、偽造の旅行許可証、コンパスやドイツ軍の制服や民間人の背広といった衣類等の様々な種類の物を収納する倉庫にも使用された。驚くべきことに幾名かの友好的な歩哨が、列車の時刻表、地図や偽造するのに必要な多量の公式書類の入手に協力した。最初から民間人の服だったものの何着かは、煙草、コーヒー、チョコレートを賄賂に使いドイツ人スタッフから入手した。これらの品は、脱走した捕虜がより容易に(可能であれば列車で)収容所から立ち去ることに使用された。 後に捕虜は土砂を隠す場所に不足をきたし、雪が積もると土砂を地面に撒き散らすことはできなくなった。劇場の座席の下には巨大な囲われた空間があったが、劇場は捕虜の恭順宣誓の下に提供された道具や資材を使用して建てられており、恭順宣誓は不可侵(道具を決して他の目的に使用しないといったようなこと)のものと考えられていた。内部で「法的助言」が求められ、SBOは劇場自体は恭順宣誓に拘束されないという判断を下した。13番の座席が開閉式にされ、土砂の問題は解決した。 戦争が進行するに連れドイツの捕虜収容所には米兵捕虜の数が圧倒し始めた。ドイツ側は米軍航空兵専用の新しい捕虜収容所を建設することを決めた。米兵捕虜を含むなるべく多くの者を脱走させるために残された2本のトンネル掘削へ力が注がれたが、この急激な活発化が歩哨の注意を引き1943年9月に「トム」の入り口がこの収容所で発見された98番目のトンネルとなった。森に隠れてペンギンを監視していた歩哨がトムのあるバラックから土砂が運び出されることに気が付いたのであった。「ハリー」の作業は中止され、1944年1月まで再開されなかった。。なお発見された時期を同じくして、ロジャー・ブッシェル少佐発案の元、鉄条網切りによる単独の脱走が25名ほどにより試みられたが、鉄条網を切る時に見つかる等したため成功することはなかった。
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トンネル掘削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/07 04:10 UTC 版)
金工作はSISとCIAによって計画されたが、CIAの資金と人員によって実行された。プロジェクトの詳細はまだ機密扱いされ、見つけられる当局の情報はどれも不十分なものである。この主な理由は計画が認可された当時の中央情報局長官であったアレン・ウェルシュ・ダレスによる「書き残すことを可能な限り削減せよ」との指示があったためである。 一つの報告によるとドイツ連邦情報局の長官であったラインハルト・ゲーレンはダレスに重要な電話線の合流地点について最初に注意を促した。その地点は地下2メートル足らずであり、3つのケーブルがともに西ベルリンのアメリカの区域の境界近くに来ていた。 英国および米国の情報当局者は、トンネルを計画するために、ロンドンで会合したが、その初期の会議に出席した人間の中にジョージ・ブレイクという英国情報機関内の二重スパイがいた。ブレイクは直ちにKGBに警告し、ゲーレンのエージェント2人はベルリンの運河を横切る通信線で盗聴できるものを求めている際に逮捕された。 KGBはそこに偽情報を発信する可能性を求め、また情報源ブレイクのスパイ発覚を懼れ、金工作の進行を黙認することにした。 1953年12月に、作戦は元FBI職員でCIAに転任したウィリアム・キング・ハービー(英語版)の指揮下に置かれた。トンネルの準備の場として役立てるためにベルリンにおけるアメリカ区域のルードー(Rudow)地区に異様に深い地階を持つ倉庫が特別に造られた。繁華街の地下47 cm足らずに埋設されているケーブル群を横切り、なおかつ世界で最も厳しく警備された国境の6 m下に450 mのトンネルを秘密裏に建設するという難工事であった。最初の竪穴の掘削は、1954年9月2日に始まり、翌年2月25日に完了した。
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