トンネル工事
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トンネル掘削の際、注入工法、シールド工法、NATM工法及びそのロックボルト定着、地山と覆工の隙間充填など幅広く用いられる。
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トンネル工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 04:38 UTC 版)
敦賀以南の改良(深坂トンネル開削、鳩原上りループ線構築、交流電化)に引き続く北陸線の抜本的な輸送改善を期し、戦前より様々な改良案が出されていた。 本格的に改良案の検討に着手したのは1952年以降で、国鉄金沢改良委員会を中心に検討が行われた。その際に出された改良案は、 在来線腹付け盤下げ複線化案(敦賀 - 新保 - 杉津 - 大桐 - 今庄) 南今庄(大桐付近に設置予定とされたもので、現在の南今庄駅とは異なる)より杉津海岸へトンネルで抜け、海岸沿いに敦賀までの単線を新たに敷設する新線案(敦賀 - 阿曽 - 杉津 - 南今庄(新大桐) - 今庄) 上述海岸線の改良版で、敦賀、杉津から武生までの複線化案(敦賀 - 杉津 - 武生) 今庄より中之郷までの直線トンネル複線化案(中ノ郷 - 今庄) であったが、 1.は既存のルートを最大限に生かしスイッチバック解消のため路盤を下げ、勾配緩和工事を瑣末に行うものであったが、雪害・地崩れ対策に明るい解決策がない。 2.は戦前から有力であった海岸線の構想で、海岸沿いのルートを取ることによって雪害・地崩れ対策などには若干効果があるが、単線案のため、スピードアップなどの面においては在来線に変わるメリットがさほど見出せない。また、単線のため、新線を在来線と併設すると二重投資になる. 3.海岸線の改良複線化案であるが、この案でも武生 - 今庄 - 杉津間を存続させるかどうかが問題になる。 4.は明治初期より計画されていたもので、技術的にも最も好感を持たれていたが、敦賀を通らない案は容認されなかった。また、将来的に関西方面 - 米原 - 敦賀の湖東経由東海道線の輸送量がパンクした際に、湖西周りからのバイパス路線を接続しにくいこともネックであった(湖西線開通によりその意図は達成された)。 などを理由にいずれも却下された。 結局、スピードアップを最優先事項とし、今庄から敦賀まで1本のトンネルを掘ることになった。 1957年11月14日に着工した。敦賀・今庄の両坑口のほか、中間2箇所からも立坑・斜坑を掘るという突貫工事で掘削が進められた。世界的にも注目され日本国外からの視察団もよく訪れた。期間中、新保駅のスイッチバック今庄方引き込み線が延長されて葉原斜坑への資材運搬拠点とされた。北陸トンネルのルートに当たる敦賀市葉原には作業員(とその家族)が多く住み、1959年の葉原小学校には229人もの児童が在籍した。断層や出水に悩まされたが1961年7月31日に貫通し、翌1962年3月に完成した。以後、整備を重ね6月9日には旧線から線路を付け替え暫定運行を開始し、6月のダイヤ改正に合わせ6月10日より正式供用を開始した。6月10日の開通祝賀式典に併せ、殉職者慰霊祭が敦賀ポータル側で行われた。当初から交流 20,000 Vで電化されていた。今庄止まりの通勤列車はすべて敦賀まで延長され、今庄敦賀間の所要時間は1時間以上の短縮となった。 この区間の開業に伴い、杉津経由の旧線は廃止されている。沿線住民との交渉の結果、大桐駅の代替駅として約 2 km 今庄よりに南今庄駅が新設され、また敦賀 - 新保、敦賀 - 杉津(海岸周り)、今庄 - 大桐と旧駅間にそれぞれ代替バス路線が設定された。旧線敷地跡は1963年11月4日に道路化された。 掘削時に温泉が湧き出し、「敦賀トンネル温泉」(北陸トンネル温泉)として開業された。その反面、トンネル掘削の影響で地下水流が変わり、新保集落ではかつていたるところで湧き出ていた温泉が枯れたといわれる。 北陸トンネル入口の看板(敦賀市深山寺)左手の道路(国道476号)は深山信号場跡 北陸トンネル 樫曲斜坑入口の看板(敦賀市獺河内)
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