トンネル工事概況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:35 UTC 版)
@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 愛岐トンネル群各トンネルのおおよその位置1 玉野第1隧道(1号トンネル)2 玉野第2隧道(2号トンネル)3 玉野第3隧道(3号トンネル)4 玉野第4隧道(4号トンネル)5 隠山第1隧道(5号トンネル)6 隠山第2隧道(6号トンネル)7 諏訪第1隧道(7号トンネル)8 諏訪第2隧道(8号トンネル)10 諏訪第4隧道(10号トンネル)11 廿原第1隧道(11号トンネル)12 廿原第2隧道(12号トンネル)13 池田町屋第1隧道(13号トンネル)14 池田町屋第2隧道(14号トンネル) 1900年(明治33年)7月25日に開業した名古屋-多治見間の鉄道敷設工事において、春日井市地内の予定路線は、当初、下街道沿いに内津峠を越えて多治見に至るルートと定められ、後年に整備された国道19号バイパスとほぼ同じルートであった。鉄道省は1893年(明治26年)にこのルートを測量し、内津峠にトンネルを1つ掘ればよいだけであることを確認していた。しかし、そのルートにあたる坂下地区では、養蚕を主産業とする農家が多数あったことから汽車の煙が蚕の生育に悪影響を及ぼすことを懸念する声や、鉄道が通ることで下街道の交通が衰えることを憂いた住民の反対が非常に強くあり、鉄道省はルートの変更を余儀なくされた。そこで新たに候補となったのが、高蔵寺から多治見へ抜ける玉川線のルートで、のちに愛岐トンネル群と呼ばれる14のトンネルを必要とする、費用のかさむ案であった。他の候補もなかったわけではないが、玉川線の中心駅が予定された勝川町を中心とした沿線自治体関係者の積極的な誘致と、古くからの集落や耕地を避けて集落外の湿地や山林を通るなら、と、妥協した庄内川流域住民の積極的な反対がなかったことで、玉川線が採択された。 玉川線の工事は1896年(明治29年)11月から1899年(明治32年)6月までの間に着手され、1897年(明治30年)4月以降1900年(明治33年)7月までの間に施工された。この区間の最急勾配は1,000分の10、最小曲線半径は301.8メートルである。愛岐トンネル群が含まれる工区は第7,8,9工区とされ、このうち第7,8区は鉄道省直営の施工であった。いずれのトンネルも概ね1900年(明治33年)に工事が完了した。 「隧道聚楽地帯」ともよばれたこの3区間は、大部分が「庄内川」(岐阜県内では「土岐川」と称される)の激流に沿って婉曲した山岳の起伏が連なる断崖絶壁の地形で、そこを14基のトンネルが貫いて鉄路を通したのであるが、トンネルが穿った地質は概ね脆弱で建設工事は苦難の連続であった。 最も難工事となったのは、川に近接する「隠山第2隧道(6号トンネル)」である。この付近では、トンネルの西側の切り取り個所が1897年(明治30年)4月の大雨によって3鎖余り(約60~70メートル)にわたり崩落し切り取りで地盤を維持することが不可能とみられたため、やむなくトンネルを延長することとなり、このトンネルを支えるために川岸に堅牢な石垣を築いて土砂の崩落を抑える新たな工事が必要となった。 人命も喪われた。「隠山第1隧道(5号トンネル)」建設工事では、1897年(明治30年)11月21日、トンネルの東側出入口の上方の山に突き出ていた高さ7メートルの巨岩が工事中に崩落する事故があり、工事にあたっていた作業員6名が生き埋めとなって命を落とした。ただちに復旧工事が行われたが、なお崩落の危険があったことから、ここでも当初の設計を変更してトンネルが延長された。愛岐トンネル群の建設工事では、このほかにも落盤事故や土砂の崩壊などで人命が失われ、開業までに二十余名の作業員が落命した。その慰霊碑は開業直前の1900年(明治33年)6月に玉野町大平寺に建立され、開業100周年を迎えた2000年(平成12年)10月に旧国鉄OBらによって定光寺駅に近い東海自然歩道の入口付近に移設された。 14基のなかで最も長いトンネルである「諏訪第1隧道(7号トンネル)」の建設工事では、坑門口付近の地質が脆弱で崩落の恐れがあったことに加え、坑内から湧水が多量に流出して排水にも困難を極め、工事の大きな障害となった。 工事に要する資材の運搬も容易ではなかった。「池田町屋第2隧道(14号トンネル)」に必要な資材は名古屋からの街道が途絶え池内を通過する以外に道がなかったため、内津峠を越える名古屋-美濃間で唯一の交通路であった下街道を一般の車馬の往来に混じって運ぶ必要があった。そのほかのトンネルに必要な資材は、下街道の鳥居松から分岐して里道を迂回し、いったん玉野に集積した後に各トンネル工事現場へは小運送に頼った。玉野から東は、資材運搬のための軽便鉄道が敷設されたが、1897年(明治30年)6月から施工されたこの軽便線の敷設・維持も容易ではなかった。「玉野第4隧道(4号トンネル)」や「隠山第1隧道(5号トンネル)」付近では、工事によって生じた土砂を運搬するため、軽便線を庄内川に架設して対岸に搬出していたが、これが川の増水によって複数回にわたり軌条もろともに流出する災害にも見舞われた。
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