苦難の連続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 22:00 UTC 版)
目標面積は1963年までに達成したが、そこに至るまでの道のりは決して順調とは言えなかった。植栽が始まってから3年後の1938年には一冬で堆砂垣が飛砂で埋没し、植栽木がすべて枯死してしまった。また翌年(1939年)の7月には豪雨によって造成地一帯が水没する被害に見舞われた。松原の活着率の悪さを鑑みた近隣住民は事業者らに「気違い沙汰」「奇人」という印象を抱き、時には皮肉を浴びせていた。事業者たちからも事業自体が冷遇され、営林署の職員は事業にかかわることを嫌い、この事業所の勤務となることは島流しと同等だとまで思われていた。 この地に限らず、飛砂被害が甚大であった地域は日本全国にあった。飛砂は家屋や田畑を埋め、時には川まで埋めて洪水を引き起こしていたため、全国各地で砂防造林植栽が行われていたが、植えた苗木が埋没したり、苗木が風で飛ばされるなどして活着しなかった。こうした状況から地元住民から罵詈雑言を浴びせられ、予算の無駄遣いと陰口をたたかれることも珍しくなかった。日本各地にあるクロマツ海岸林のほとんどは、そうした困難を乗り越えて造成された。 このように松の植栽は困難を極めたが、前述のとおり海岸林造成の背景に国策であった食糧の増産があったことから、植栽は戦時中でも続けられた。飛砂の中で根付いたクロマツは生長を続け、それに反比例して飛砂の被害は終息へと向かい始めた。終息に伴い、田畑からの砂除けは1955年あたりを境に行われなくなっていった。また海岸林の機能が発現され始めてから農業生産が安定したことで、飛砂被害によって減少した人口が戻り始めた。
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苦難の連続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/24 00:03 UTC 版)
この恒久的キャンプが据えられてから数ヶ月間、植民者達は周辺を探検するために短い遠出をした。10月末、ラ・サールはより長期の遠征を行うことに決めて、残っていた物資の多くをラ・ベルに再度積み込ませた。50人の男と27人のラ・ベルの水夫達を連れて行き、後には34人の男、女および子供達が残った。男達の大半はラ・サールと共にカヌーに乗り、ラ・ベルは海岸沖から着いて行った。旅が3日過ぎた時に彼らはその地域の敵対的インディアンがいることに気付いた。フランス人の中から20人がインディアンの集落を襲い、そこでスペインの工芸品を見つけた。この遠征隊のうち数人はウチワサボテンの実を食べて死に、カランカワ族の者が岸でキャンプしていたラ・ベルの船長を含む小集団を殺した。 1686年1月から3月までにラ・サールと男達の大半は陸路ミシシッピ川を探しに出かけたが、リオ・グランデ川の方向に行き、おそらくは現在のテキサス州ラングトリーまで西に行った。隊員達は地元のインディアン部族にスペイン人やその鉱山の場所に関する情報を尋ね、贈り物をして、スペイン人を残酷な存在として、フランス人を親切な存在として話をした。この集団が戻ってきたとき、後に残して行ったラ・ベルを見つけることができず、歩いて砦に戻るしかなかった。 翌月彼らは東に向かい、ミシシッピ川を突き止めてカナダに戻れることを期待していた。この遠征の間にカド族インディアンに出遭い、カド族の領土、その隣人達の領土およびミシシッピ川の位置を示す地図を手渡してくれた。カド族は隣り合う部族と友好的盟約を結ぶことが多く、その平和的交渉を行う政策をフランス人にも展開した。このカド族を訪ねている間に、ジュマノ族の交易者と遭い、ニューメキシコにおけるスペイン人の活動について知らされた。これら交易者は後に、スペイン人の役人に彼らの出遭ったフランス人のことを話した。 ネイチェス川に着いたときに4人の隊員が脱走し、ラ・サールとその甥が重病になったので、集団は2ヶ月もそこに留まるしかなかった。病気から快復した時には食糧や弾薬が尽きかけていた。8月に、残っていた隊員の8人はサンルイ砦に戻り、結局東テキサスを離れることは無かった。 ラ・サールが遠征に出ている間にラ・ベルに残っていた者達のうち6人がサンルイ砦に到着した。彼らに拠れば、ラ・ベルの新しい船長は常に酒に酔っていた。水夫達の多くは航海のやり方を知らず、マタゴルダ半島に船を座礁させてしまった。生存者達はカヌーを使って砦に向かい、船を後に残した。最後の船を破壊したことで、開拓者達はテキサス海岸に取り残されてしまい、カリブ海にあるフランス植民地からの援助を得る望みも無かった。 1687年1月初旬、当初180人居たメンバーの中で45人足らずしか植民地に残っておらず、しかも内部闘争に悩まされていた。ラ・サールは唯一の生き残る道がヌーベルフランスからの応援を求めて陸路を進むことだと考え、その月のいずれかの時点でイリノイ郡に辿り着く為の最後の遠征隊を率いて出発した。サンルイ砦には女性と子供、その他旅には不適と考えられた者達と7人の兵士、さらにはラ・サールが不満に思っていた3人の宣教師、合わせて20人足らずが残った。遠征隊はラ・サールとその兄弟および甥の中の2人を含め17人となった。3月18日に現在のテキサス州ナバソタ近くでキャンプしているときに、隊員の数人がバッファローの肉の分け前のことで喧嘩を始めた。その夜ラ・サールの甥の1人と他に2人が他の隊員のために眠っている間に殺された。翌日、ラ・サールは甥の失踪を調査する為にキャンプに近付いているときに殺された。それから幾らも経たないうちに、内部闘争によって他に2人の隊員も殺されることになった。生き残った隊員のうちジャン・ラルシュベクなど2人はカド族と合流した。残った6人でイリノイ郡に向かった。イリノイを抜けてカナダに向かう旅の間、男達はラ・サールが死んだことを誰にも告げなかった。彼らは1688年の夏にフランスに到着して、ルイ14世にラ・サールの死と植民地の恐ろしい状態を知らせた。国王は救援を送らなかった。
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