事業家として
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NPO法人あかねの会理事長として、平成13年度〜16年度の3期に就任し、後の理事長を吉田由紀子(現社会福祉法人あかねの会理事長)に引き継いる。任意団体時代からあかねの会に私財を投入して創設した一人。 在籍中には、あかねの会は『NPOアワード2003』に選出される。(2003年最も活躍した NPO30団体として:社団法人東京青年会議所主催) 平成13年にこれまで民間の任意団体であったあかねの会はNPO法人となり、(当時知的障害者の練馬区内NPO法人では、第一号法人)初代理事長として法人運営や各施設の施設長として、現場の指導員としても多岐に渡り、障害者の自立支援に従事する。 作業所では店舗展開を行い、接客や対人適応の場を設置するなど一般的な企業実習の他に法人独自のプログラム導入の体制作りなど従来の福祉施設のスタイルを切り崩した。 本人が民間企業出身であるため、事業展開の速さや実践主義・店舗販売による自主運営主義を唱える発想には福祉ベンチャー的なイメージが強く、賛否が分かれた。福祉界にもサービス業やビジネス精神を持つことは、後に制定される支援費制度や自立支援法を経て、利用者の工賃収入に注力し、その先駆的発想を証明している。本人の事業思想は、ソーシャルインクルージョンを根底とした地域活動で「障害者を納税者に」を一貫して唱えソーシャルアクションを行った。これは、我が施設良かれの姿を排除し、あくまでも施設は地域のものであることを基本とした。 グループホーム事業においては、法人所有・民間賃借・都営住宅など多形態の方式で毎年開設を行い、当時のNPO法人としては都最多の設置数7ヶ所となる。その後は(第8寮以降)社会福祉法人化に伴い、事業移行を社会福祉法人あかねの会として事業展開を続けている。 あかねの会としては本人の出身地である文京区に設置が無かったグループホームを区内で初めて立ち上げる。
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事業家として
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吉郎兵衛は明治31年(1898年)7月に、「営業満期国立銀行処分法案」が可決され父の三代吉郎兵衛が明治12年(1879年)に設立した第百四十八国立銀行が満期になると、これを継承して資本金は四代目吉郎兵衛が全額を出資し、個人銀行の山口銀行 (大阪)を設立し16歳で頭取に就任した。のちに、慶應義塾を卒業、町田忠治を供にアメリカなどを歴訪した。大正6年(1917年)5月に組織を変更して株式会社の山口銀行になると同時に取締役社長に就任した。また山口銀行の傘下にあった大阪貯蓄銀行の取締役(大正5年(1916年)3月)、頭取(昭和3年(1928年)4月)に就任し、さらに大正8年(1919年)2月には日本生命保険の取締役会長に就任している。さらに山口財閥の事業網が拡大するとともに、大正9年(1920年)1月には北前船主の広海二三郎らとともに大日本火災海上再保険を認可され取締役を務めた。大正14年(1925年)7月には関西信託の取締役に就任し、また昭和3年(1928年)6月には山口財閥が買収した尼崎共立銀行の頭取にも就任した。
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事業家として
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大正3年(1914年)、機械による製茶業を営んだが、大正9年(1920年)、火事により工場を失い、製紙原料の仲買業を専業とした。 大正10年1921年)、斉藤商店を創業。大正11年(1922年)、斉藤兄弟商会に改称。 昭和2年(1927年)、買収した寿製紙を昭和製紙に社名変更。昭和3年(1928年)、同社の全株式を入手して社長に就任。同年斉藤兄弟製紙を株式会社に改組して斉藤商会とする。昭和10年(1935年)、斉藤商会を昭和製紙に吸収合併。 昭和13年(1938年)、自らが社長を務める昭和製紙、昭和産業、駿富製紙の3社と、五弟・信吉が社長の岳陽製紙に大正工業を加えた5社を合併して、大昭和製紙(現・日本製紙)を設立、会長に就任。昭和18年(1943年)、社長となった。 終戦になると、鈴川工場を中心に自社の諸工場の復興に努力を払った。そして脱税事件で告発されたりして、精神的に大きな打撃を受けにも拘らず、会社の増設や改造を次々と実施して、昭和二十年代には見事に見違えるような大昭和製紙に復興させた。 昭和36年(1961年)2月20日、吉原市議会の議決により、名誉市民の称号が贈られた。
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事業家として
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日清紡以外の事業家としての業績として山下太郎の事業意欲に心を打たれて、桜田個人の決断としてアラビア石油に出資し創立に関与した。この関係でアラビア石油創設以来、監査役を務めた。東邦レーヨン(現・東邦テナックス)の倒産危機では、メインバンクの富士銀行(現・みずほ銀行)の岩佐凱実から頼まれ再建させた。1968年に起きた日通事件では、当時の中曽根康弘運輸大臣から日本通運の再建の一切のゲタを預けられて木島虎蔵を押し込み成功させた。他に三鬼陽之助が創立した「財界研究所」の援助など。故郷・広島への功績として永野重雄会長とともに広島県人会副会長を長く務め、また日本鋼管福山製鉄所の誘致にあたっては、池田勇人に口添えを頼むなど、側面から尽力した。また、財政制度審議会会長など、多数の要職についた。
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事業家として
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家業に対しては、質素と倹約に努めた。ヨード事業の前の、夫亡き後の「滝屋」繁盛の陰には、ナカの健気な姿勢にうたれた取引先や、消費者の支援もあった。強い精神力の持ち主であり、家業がどんなに逆境にあっても、落胆せず気丈に振る舞って従業員を励ましたりしたため、誰からも慕われた。商標の「㊥」の字から、近隣から「まるなか」と呼ばれて親しまれ、店は繁盛した。 ヨード事業の本格化の後も、その働きは男顔負けであった。朝は誰よりも早く起きて、カジメを採るために雇った男たちを船で海に出し、自分はテルと共に海岸でカジメを拾い集めた。船が陸に戻ると、カジメの陸揚げのために先頭に立って働いた。従業員が午前3時頃に叩き起こされ、仕事場に出ると、ナカがすでに一仕事終えていたこともあり、従業員たちがナカに負けじと仕事に取り組むことで、職場は常に活気に満ちていた。三郎助も、当初はヨードに無関心であったものの、事業に協力し始めたのは、朝から夕方まで真っ黒になるまで働くナカの姿に、次第に心を動かされたからである。調味料「味の素」の開発もまた苦難の連続であったが、鈴木家がそれを乗り越えることができたのは、鈴木家の土壌を築き上げたナカの功績だとする意見もある。 事業運営の創意工夫と努力も、常に怠ることはなかった。技術面でも、ヨードカリの結晶も、ナカの作ったものが最も粒揃いであった。その姿勢は、長井長義からも高く評価された。長井は毎年、修学旅行のたびに葉山に立ち寄り、教え子たちに「君たちに、日本で一番偉い女性を紹介する」と言って、ナカたちの奮闘の姿を見学させて、ナカや鈴木家が数々の困難を乗り越えて事業を成し遂げた功績を生徒たちに説明していた。ナカの没後も、ナカの写真を指して「こういう高学歴でない一婦人でも、これだけ意義のある仕事を残した。まして、あなた方高等教育を受けた者は、よほど肝をすえてがんばらねばならない」と諭していた。社史研究家である村橋勝子も、ナカの事業家としての統率力、人事管理能力を高く評価しており、自著で「鈴木家の救世主」と綴っている。
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「坂口平兵衛 (初代)」の記事における「事業家として」の解説
明治19年(1886年)、米子に県立製糸伝習所が設けられると、明治20年(1887年)に家業の木綿業を廃止して、製糸場を興す。明治24年(1891年)、蒸気機関を備えた米子製糸合名会社を設立。 明治42年(1909年)、渋沢栄一を団長とする渡米視察団の一員として製糸業界を代表して参加した。 明治24年(1891年)に米子汽船、明治27年(1894年)に米子銀行、その後も米子倉庫、米子製鋼所、山陰電気などを次々に興し、「商都米子」の基盤を築いた。 明治39年(1906年)の私立米子女学校(米子西高校の前身)設立には多額の寄付をした。また、昭和3年(1928年)設立された米子商蚕学校(米子南高校の前身)に15万円を寄付した。
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事業家として
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中日への入団1年目から、いわゆる「サイドビジネス」を多々手掛けている。板東によれば、南海ホークスとのオープン戦で打席から杉浦忠の投球を目にした瞬間に、野球選手としての限界を悟ったことがきっかけになったという。板東自身はその年の一軍公式戦で4勝を挙げたが、同期で入団した選手がシーズン中に次々と退団する姿に危機感を募らせたあげく、「いつ野球を辞めてもいいように、やれることは何でもやろう」と決意。実父が自身の契約金の大半を株式投資に注ぎ込んで多額の損失を出したこともあって、「株で損した分は株で取り返そう」という姿勢で、自身もシーズンの終了を機に株式の取引を始めた。さらに、タイトーの名古屋支店長と知り合った縁で、同社が扱っていた外国製の中古ジュークボックスの訪問営業にも着手。南紀白浜(和歌山県)などの温泉街にある旅館や喫茶店へ自ら売り込んだ末に、自身の予想を上回る利益を得た。しかし、ジュークボックスのメンテナンスをめぐって売り込み先からの苦情が殺到したため、早々に手を引いた。 中日2年目のシーズン中には、関西圏での試合の際にチームで宿泊していた竹園旅館(兵庫県芦屋市)の近辺で営業していた牛乳店が、店主の高齢化によって廃業することを聞き付けた。そこで、当時牛乳業界に従事していた実兄を通じて、その店の営業権を取得。実兄に店舗の営業を任せながら、自身も関西へ遠征するたびに牛乳の宅配を手掛けていた。もっとも、営業環境の悪化から、後に廃業を余儀なくされている。 中日時代の後年には、名古屋市内に1億円の自己資金で4階建てのビルを建設するとともに、ビル内でサウナ、ナイトクラブ、麻雀荘、割烹を経営。試合の合間を縫って早朝から深夜まで働いていたが、手抜き工事に起因するビルの雨漏りや、地下水の汲み上げによる地盤沈下などに見舞われた。結局、胆汁が出なくなるほどの過労で入院を余儀なくされたことから、約2億5,000万円でサウナの常連客にビルを売却した。なお、引退後の出演番組や著書では、笑い話を交えながらたびたび当時の失敗談に触れている。 現役引退直後の1970年代前半には、名古屋を拠点に野球解説者やタレントとして活動するかたわら、中日球団からの承認の下に野球帽、マスコット人形、ユニフォーム柄のパジャマを販売。いずれも、日本のプロ野球球団で初めての公認グッズとされている。一時は、中日がナゴヤ球場でホームゲームを開催するたびに、「中日のマスコットキャラクターを描いたビニール入りの座布団を保証金方式で観客に貸し出す」というサービスを球場内で提供していた。「試合後の回収と連動した座布団の反復利用」を念頭に置いたサービスだったが、マスコットキャラクターを描いたグッズ自体が珍しかったことから、試合後に座布団だけを持ち帰る利用者が続出。ナゴヤ球場のスタンドに屋根がないにもかかわらず、雨や水に弱い紙を座布団のベースに使ったことも災いして、このサービスは早々に頓挫したという。 1990年代からは通信販売事業を開始。最初は通信販売番組に出演するだけだったが、後に運営にも携わった(詳細後述)。また、かつては、大阪市の西天満に建つビルを所有。自動車では日産・プレジデントやトヨタ・istを購入したという。しかし、前述の不祥事でオフィス・メイワークを閉鎖したことを機に、所有するビルを知人に売却した。 『めちゃ2イケてるッ!』(フジテレビ)の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときに、カレービビンバを食べて「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。 大阪滞在時は「お前の店高いねん!」「ボッタクリやで!」と言いつつ、仲の良いリリアンの店に飲みに行き、カラオケ(2009年4月時点では吾亦紅)を練習している。
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事業家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/11 07:38 UTC 版)
「ジョンズ・ホプキンズ」の記事における「事業家として」の解説
ビジネスを始めたホプキンズにとって最初期の成功は、おじが米英戦争で留守の間に店を任されたことで訪れた。おじと7年間働いた後、ホプキンズは同僚のクエーカー、ベンジャミン・ムーア(英: Benjamin Moore)と共同事業を行うようになっていた。この共同事業は3年で頓挫したが、多額の資産を溜め込もうとするホプキンズにムーアが反感を持ったためとも言われる。 ムーアとの共同事業を解消したあと、ホプキンズは1819年に、兄弟3人と Hopkins & Brothers Wholesalers を設立した。会社はコネストーガ幌馬車でシェナンドー・バレー中に商品を売り歩く事業で大成功を収め、時にはコーン・ウイスキーとの物々交換も行った(こうやって得たウィスキーは、ボルティモアで「ホプキンズ・ベスト」としてよく売れた)。しかしながらホプキンズの多額の資産は、彼が多種多様な投機に賢明な投資をして得たもので、その中でもボルチモア・アンド・オハイオ鉄道への投資が最も有名である。ホプキンズは1847年に会社の取締役となったほか、1855年には財務委員会の議長となった。彼はこれ以外にも複数組織の取締役を務めたほか、投資銀行の頭取にもなった。仕事で大成功を収めたホプキンズは、1847年、52歳にして隠居することができた。 慈善家だったホプキンズは、金融難の時期を通じてボルティモア市に資産を寄付しただけでなく、1857年と1873年には鉄道敷設の負債について保証人を務めている。1996年には、アメリカ人の億万長者を集めたランキング "The Wealthy 100: From Benjamin Franklin to Bill Gates - A Ranking of the Richest Americans, Past and Present" で69位に選出された。
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