事業展開と上映
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:31 UTC 版)
稲畑系シネマトグラフは、大阪、京都、東京を重要拠点に定めて上映会場を手配し、専門の従業員たちを育成し各拠点に送り込み、彼らに映画興行の現場を任せるという方法で事業を展開した。専門の従業員たちは、稲畑染料店の従業員の山内と村松、浮世絵師の野村芳国と息子の野村芳亭、横田永之助とその協力者の荒木為次郎などである。ジレルは5台のシネマトグラフを操作するために従業員を技師として養成し、山内と村松、荒木が映写技師として任務を果たした。野村芳国と横田は会場の手配や興行を仕切る太夫元として任務を果たし、野村が東京以外の興行を担当し、横田が東京方面の興行を担当した。 稲畑系シネマトグラフの初上映は、1月中旬頃に大阪で行う予定だったが、1月11日に英照皇太后が崩御し、服喪として1ヶ月間歌舞音曲が禁止されたため、上映初日は喪明けの2月15日までずれ込んだ。上映会場は大阪の南地演舞場で、稲畑はこの上映にあたり「自動写真協会」の名を設け、2月28日まで上映を続けた。上映は毎日午後5時から11時の間に数回行われ、数本の外国作品でプログラムが組まれた。映画説明は十一代目片岡仁左衛門の弟子の片岡才槌(高橋仙吉)が務めたが、会期中に何らかの理由で降板しており、楽日付近は説明者が不在のまま上映が行われた。映画史家の田中純一郎によると、上映は2日目から大入り満員となり、場外の柵がこわれるほど客が殺到し、入場できないで空しく帰った客がたくさんいたという。 南地演舞場での上映を終えると、関西と東京の二手に分かれて上映を展開した。関西では、3月1日から6月3日まで京都新京極の東向座で上映し、新京極で大道商人をしていた坂田千曲(千駒)が映画説明を担当した。東向座でシネマトグラフを見た観客の回想によると、ナポレオンに扮した俳優が帽子を取ってお辞儀をする映像が上映された時に、説明者が「これはナポレオンである。ナポレオンはナポレオンである」と訳の分からぬ説明をしたため、会場は爆笑に包まれたという。その後は大阪での上映が続き、3月9日から11日まで道頓堀角座、3月13日から19日まで天満座、3月23日から29日まで松島八千代座で上映された。関西では京都と大阪だけでなく、奈良や神戸でも上映が行われている。 東京では、3月5日から神田の貸席の錦輝館で上映する予定だったが、すでに錦輝館は競合相手の新居系ヴァイタスコープ(新居商会)に予定を押さえられていたため、会場に使うことができなくなった。この錦輝館の予約をめぐる興行競争は、3月4日付の読売新聞に「活動写真の競争」という見出しで報道された。稲畑系シネマトグラフはやむを得ず浅草公園に会場を移し、天幕張りの仮設会場「日本シネマトグラフ館」を開設して上映しようとしたが、電気装置の都合で上映できなくなったため、神田三崎町の川上座に会場を移し、3月8日に「自動幻画」の名称で上映を始めた。川上座での上映は好成績をあげ、3月28日まで行われた。東京では5月にも東両国の料亭の中村楼で上映したが、すでに東京の映画上映は競合相手により連日のように行われており、ほぼ飽和状態となっていた。 その後は関西や東京だけでなく、地方都市にも進出して上映を展開した。4月からは名古屋、横浜、仙台、5月からは下関、8月以降は博多、小樽、札幌などで上映された。しかし、稲畑は興行界の特殊な因習に嫌気がさしたことなどが理由で、興行代理人の業務から手を引き、シネマトグラフ事業の権利を横田永之助に譲渡した。長谷は、稲畑がシネマトグラフ事業から撤退した時期を、1897年11月から1898年6月までの間と推定している。その後横田は日本各地で映画の巡回興行を行い、やがて横田商会を設立して本格的に映画事業に進出すると、牧野省三と尾上松之助のコンビによる旧劇映画などを製作し、日活の創立にも尽力した。長谷はこうした点から、稲畑系シネマトグラフの事業が日本映画産業の発展の礎となる役割を果たしたと指摘している。
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