事業家としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 11:05 UTC 版)
「小川栄一 (実業家)」の記事における「事業家としての活動」の解説
小川は華族や財閥が独占していた庭園や邸宅を大衆に開放することが観光事業であり、経営者がなすべき社会事業であるとの信念を持ち、安田財閥の役員らを前に「財閥は天下の秀才を集め、しかも『確実にして有利』『有利にして確実』な投資を求めて無限の富を築こうとしている。この結果、わずかな有限の富しか築けない大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間にはおのずから大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。それはやがて無限を志す財閥の富を根こそぎ持ち去ってしまうかもしれません。そこで財閥はみずから富を有限とし、限度を超えた富に対しては、やがての成長産業のために投資する、従来財閥としてやらなかった投資、あるいは慈善事業など、社会、公共ともに生かすことを考えていかねばなりません」と演説を打った。 産業計画会議の東京湾問題委員会委員長となり、自らも国土総合開発を設立して東京湾の埋め立てを推進した。富津岬を中心に7000haを一手に埋め立てる壮大な計画(小川構想)を発表。池田勇人首相に説き、1961年(昭和36年)7月18日に計画が「極めて妥当な考え」であり政府はこれに協力する方針をとるべき旨の閣議了承を得ると、自民党党人派の有力者の大野伴睦や川島正次郎の支援を受けて埋め立て権の付与を千葉県に働きかけた。 小川は同じく党人派の有力者である河野一郎とも親しく、1960年代中頃に新東京国際空港の建設地が検討された際には、河野は小川がイギリスの業者に設計させた青写真を持ち出して木更津沖を埋め立てて空港建設することを運輸大臣の綾部健太郎や運輸省に強く迫った。河野の介入は、結果として空港計画を迷走させ、成田空港問題の発生を招いた。
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