大野伴睦とは? わかりやすく解説

大野伴睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 09:42 UTC 版)

大野 伴睦
おおの ばんぼく
生年月日 1890年9月20日
出生地 日本 岐阜県山県郡谷合村
(現・山県市
没年月日 (1964-05-29) 1964年5月29日(73歳没)
死没地 日本 東京都新宿区
慶應義塾大学病院
出身校 明治大学専門部法律学科中退[1]
所属政党立憲政友会→)
(無所属→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
紺綬褒章
衆議院永年在職議員
子女 四男・大野明運輸大臣
親族 義娘・大野つや子参議院議員
孫・大野泰正(参議院議員)

第42-43代 衆議院議長
在任期間 1952年8月26日 - 1953年3月14日
天皇 昭和天皇

内閣 第5次吉田内閣
在任期間 1954年1月14日 - 1954年7月27日

選挙区 (岐阜県第1区→)
(岐阜県全県区→)
旧岐阜1区
当選回数 13回
在任期間 1930年2月20日 - 1942年4月29日
1946年4月10日 - 1964年5月29日

その他の職歴
自由民主党総裁代行委員
1955年11月15日 - 1956年4月5日
初・第2代 自由民主党副総裁
総裁:岸信介
1957年7月 - 1960年7月)
総裁:池田勇人
1961年7月 - 1964年5月
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大野 伴睦(おおの ばんぼく[2]、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか[1]〉、1890年明治23年〉9月20日 - 1964年昭和39年〉5月29日)は、日本政治家

東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長北海道開発庁長官日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。

典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した。タカ派の政策集団・青嵐会を結成した中川一郎の政界での師匠として知られる。

生涯

生い立ち

岐阜県山県郡谷合村(現在の山県市)で、大野直太郎の四男として生まれた[1][3]。兄2人(直太郎の次男、三男)は早世した[1]。母・国枝は臼井半四郎の二女[1]。父・直太郎は谷合村村長助役などを務め[3]、その半生を村政のために尽くしたので私産をほとんど蕩尽した[1]呉服類も扱っていたが、親戚知友からの借銭でことを足すようになり、その負債の返還に迫られて苦しんだという[1]

高等小学校を卒業後名古屋陸軍幼年学校を受験するも不合格となる[1]

1908年(明治41年)に上京する[1]1910年(明治43年)に明治大学に入学する[1]1911年(明治44年)の初夏に急性盲腸炎となり入院し、休学する[1]

やがて護憲運動に関心を持ち、1913年(大正2年)に大正政変の暴動に加わったことで逮捕され留置所に入り、明大からも退学処分を受けた[1]。その後立憲政友会本部に立ち入るようになって、三多摩壮士の総帥であり、党の幹部だった村野常右衛門に薦められて政友会院外団員となった。

1915年(大正4年)5月14日に本所緑町加藤外相攻撃の演説を行ったことで再び逮捕され、治安警察法第9条違反の罪で禁錮3月の判決を受け、市ヶ谷監獄に収監された(11月に大正天皇の大礼に伴う大赦で出獄)[1]

1922年(大正11年)、芝区から東京市会議員となった[3]

代議士として

代議士初当選当時における大野の肖像写真

1930年第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。

1933年キリスト教団体美濃ミッションに対して「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と主張して排撃運動を推進した。

新体制運動のスローガンが叫ばれていた1939年、政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)に所属。1941年翼賛議員同盟に反発して鳩山らとともに同交会の結成に参加。1942年、非推薦で翼賛選挙に立候補するも落選した。

戦後の活動

1945年日本自由党の結成に参加。1946年第22回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選し国政復帰。総裁の鳩山、幹事長の河野一郎公職追放されたのを受け、党人側から政治経験の浅い吉田茂のお目付け役として後任の幹事長に就任する。吉田内閣では官僚出身の吉田を党側の人間として補佐し、林譲治益谷秀次とともに「党人御三家」と呼ばれた。第1次吉田内閣総辞職後に政権を獲得した日本社会党の右派西尾末広から連立内閣での内務大臣就任を要請されるが、「社会党の左派を切らない限り政権には参加しない」として固辞した。

野党時代で民主自由党顧問だった1948年6月、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[4]。同年、昭和電工事件に連座し起訴された。ただ、1951年には無罪判決を勝ち取った[5]

1952年8月26日に衆議院議長に就任したが、その2日後に抜き打ち解散が行われてわずか3日で議長職を失う。10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後にバカヤロー解散が行われて議長を長く務めることはなかった。

鳩山の追放解除後は三木武吉河野一郎ら鳩山側近と対立し吉田派に転じた。特に戦前は政友会とは対立関係であった立憲民政党出身でありながら、戦時中の翼賛議会以後に急速に鳩山と接近してその無二の腹心となった三木に対しては激しい反発を持っていた。

1953年には第5次吉田内閣北海道開発庁長官として入閣。この際、院外団時代に衝突事件を起こし逮捕された時に、起訴を担当した検事小原直から法廷で「本当ならば極刑に処すべきだ」とまで言われたが、小原も法務大臣として共に入閣する事になった。その際、首相の吉田茂に対して冗談交じりに「ここに私を極刑にした方がいいとおっしゃった方がいるのですが、同席してもいいのでしょうか?」と訊ねたことがある。なお、長官時代に秘書官を務めた中川一郎を見初め、政界入りを促した。

1954年には自由党総務会長に就任し、反目しあっていた日本民主党総務会長の三木武吉と和解し、保守合同を進めた。

政界の重鎮

保守合同の話は進んだが、誰を総裁とするかで合意がまとまらなかったが、結党後に公選によって総裁を選出することとし、二党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方竹虎、三木、大野の4人による総裁代行委員が設置されることとなった。こうして1955年11月、自由民主党は結成された。なお、後の1956年4月には緒方の死去などもあり、鳩山が自由民主党総裁選挙により総裁に就任した。同年5月、日本消防会館建設資金のため50万円寄付により1957年8月5日紺綬褒章受章、功績顕著として木杯台付一組を賜った[6][7]

自民党内では自身の派閥となる白政会(のちに睦政会となる)を旗揚げし、大野派として約40名を擁する派閥の領袖となった。なお、大野の死後、大野派は一新会船田派)と一陽会村上派)に分裂した。

1957年に初代自民党副総裁に就任した。また、日本遺族会の顧問を務め、1958年1月には遺族からなる陳情団を組織し、政府および自民党に対して靖国神社への公式参拝を要求した[8]

岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされる[9][注釈 1][注釈 2]。一説にはこの事について岸は「床の間肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという[注釈 3]。また渡邉恒雄によるとこの一件は昭和31年(1956年)の総裁選における意趣返しであるという[注釈 4]。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相正式辞任直前に右翼(大野を支持する院外団にいた男[10])に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。

大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。しかし、大野支持で岸派の一部・十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派が分裂すると池田に勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野は泣く泣く出馬を辞退する。ところが川島は「大野を支援しようと思ったが、辞退したのでわが派は池田を支持する」と表明し、池田当選に一役買うこととなる[注釈 5]。この時大野は「川島にだまされたんだ」と再度号泣したといわれる[11]

1961年、池田に接近し再び自民党副総裁に就任。脳血栓東京都新宿区慶應義塾大学病院に入院中だった1964年5月29日心筋梗塞を起こして死去した。73歳没。死没日をもって勲一等旭日桐花大綬章追贈、従二位に叙される。墓所は池上本門寺。1964年6月14日に大野の地元である岐阜県で盛大な県民葬が開催された。岐阜市民センターで執り行われたこの県民葬は岐阜県知事を執行委員長として中央官僚や地元選出の議員、県議員、岐阜県の主な企業の経営者、後援会など総勢3千人が集まった[12]

大野派の主なメンバー

岐阜県と大野

岐阜羽島駅近くの銅像
  • 地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされ、政治駅と騒がれた。駅前には大野夫妻の銅像が立つ。
  • 産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、両市付近の地盤は弱く、また路線を大幅に迂回させなくてはならないために建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。岐阜羽島駅が今日、政治利権の権化とされるのは、地元の利益の代弁を装い、地元の利益誘導をでっちあげたことに由来する。大野は東海道新幹線の開業を見ることなくその約4か月前に死去している。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関与している。
  • 海なし県」の岐阜県をに直結する「中部横断運河」計画の強力な推進者であった。
  • 主要地方道日立大宮氏家線を国道293号への国道指定に尽力したため(大野の死去から5年後に実現)、この道のうち現在は国道400号との重複区間に位置する栃木 - 茨城県境のは「伴睦峠」と名付けられている。なお、大野の国道指定尽力で死去前に国道へ昇格された路線は国道258号(岐阜県大垣市 - 三重県桑名市)がある。
  • 間組のダム建設受注に関しては、ハザマ側から大野に対して積極的な工作が行われた。
  • 亡くなって既に60年経つが、未だに岐阜県出身者で最も首相の座に近づいた政治家と呼ばれる[9]

人物

人物像

趣味は読書、囲碁骨董、俳句[2]麻雀[3]など。日蓮宗を信仰する[2][3]

義理人情に厚い性格から「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、大義大義と云えばよい[注釈 6]」という戯れ歌でも知られた。保守合同にあたっては、この性格を知る宿敵・三木武吉が「保守合同は救国の偉業」という論理から説得したことで、大野はただちに意気投合したと言われている。

義理と人情に厚いという評判から、真偽のわからない人情話に事欠かない政治家であった。一例として、自分の選挙区とは関係もないある老婦人が「家の近くのドブ板の整備を役所に頼んでも一向にやってもらえない」と訪ねてきた際、憤慨した大野はさっそく役所に電話を入れ、すると今まで老婦人の声を聞き入れもしなかった担当課長が菓子折りを持ってきて謝罪し、すぐに作業が始まったといわれる。

他にも、大野の在宅時に自宅に泥棒が入った際、外遊のために用意していた金を渡し、「今これだけしかないが、もっといるのか?」と聞いた。泥棒は大野の思いもよらない対応にのまれ、逆に「これから一生懸命働いて、必ずこのお金をお返しに来ます」とまで言った。また、事務所に全く見知らぬ青年が駆け込んできて「お金を貸してください」と言ってきたとき、大野は全く疑いもせずこころよくお金を貸したこともあったとされる。以上のような態度・対応をとったのは、政治家のところに泥棒に入ったり金を借りにくるのはよほど困ったことがあったのだから、できるだけのことをしてやろうという考え方があったではないかといわれている。

酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。

俳人

俳人としても有名で、万木ばんぼく)の俳号で多くの俳句を残した。そのうちの一部は句碑になっている。没後の1966年に『大野万木句集』が出された。

佐藤栄作との関係

総裁密約に立ち会った岸の実弟・佐藤栄作に強い反感を抱くようになり、「俺の目が黒いうちは佐藤は総裁にさせない」とうそぶくほどであった(ただし佐藤に対しては、もともと佐藤が当選前に官房長官についたころから態度がでかい官僚だとして毛嫌いしていた)。一方の佐藤も大野を評価しておらず、大野が死去した際には大野の庶民性を称え「“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」とコメントしたが、後に「他に褒めようがなかったからだ」と酷評している[13]

渡邉恒雄との関係

読売新聞渡邉恒雄は政治記者時代、大野の番記者として寵愛を受け、影響力を拡大することとなった。大野は渡邉が来ると人払いをするほどの関係にあり、渡邉は組閣の際の大野派からの派閥推薦者の選定や、大野の没後、大野派が村上派と船田派に分裂する際にも議員の割り振りにも関与している[14]。『大野伴睦回想録』(弘文堂、1962年。新版 中公文庫、2021年3月)を後にいうゴーストライターとしてまとめている。

プロレス

力道山を可愛がり、日本プロレスコミッショナーを務めていたことでも知られている。力道山も大野を非常によく慕っており、大野から「酒を控えろ」と言われた際には、(粗暴な性格だった本人も)素直に控えたという。力道山に憧れて大木金太郎が密入国したことで逮捕されたが、奇しくも力道山の目に止まり弟子入りできた背景には大野の尽力も大きかった[15]。ただし在日朝鮮人自体は、大野が終戦直後に不良三国人集団に襲撃されて以来、毛嫌いしており、日韓基本条約にも終生反対した(条約締結は大野の没後)。

家族

大野家

著書

伝記

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ この密約自体は孫である安倍晋三が「祖父から直接聞いた」と発言しており、その際に岸は「政治家は目的のためになら嘘をついてもかまわない」と語ったという。
  2. ^ 密約の噂を大野に聞いた渡邉恒雄は念書を保管しているという児玉誉士夫を紹介して貰い、実際にその念書を撮影したという。
  3. ^ このコメントは一般に、自民党内でささやかれていたもので、俗説との説もある。
  4. ^ 昭和35年(1960年)の総裁選では、当初岸派が中立を表明していたため大野から岸に念書の有効性の確認を依頼された渡邉が岸の所に赴いたところ、「白さも白し富士の白雪」と言われたという。これは遡ること昭和31年(1956年)の総裁選で岸が大野派の票固めに品川の大野邸に赴いた際、派としての態度は白紙であるとして追い返し、結果として石橋湛山に岸が負けた件を恨みに思った言葉であるという。文藝春秋 2020年2月号『渡辺恒雄・読売新聞主筆が語る、“盟友”中曽根康弘・元総理との60年間。』、BS1スペシャル『独占告白 渡辺恒雄 ~戦後政治はこうして作られた 昭和編』令和2年(2020年)3月7日放送。
  5. ^ この過程については諸説あるが、後に川島が「池田総裁を望んだ岸の指示であった」と語ったとされる。後藤基夫内田健三石川真澄『戦後保守政治の軌跡』(岩波書店、1982年)を参照。
  6. ^ 細かな表現には諸説あり

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『大野伴睦 小伝と追想記』5 - 6、8 - 11、11 - 17、18 - 19、350 - 351頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『代議士録』44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『東京岐阜県人綜覧』132頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
  4. ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第35号 昭和23年6月23日
  5. ^ 明治大学史資料センター『鵜澤總明と明治大学』 DTP出版、2021年、197-203頁
  6. ^ 『大野伴睦 小伝と追想記』362頁
  7. ^ 『官報』第9185号90-91頁 昭和32年8月6日号
  8. ^ 王希亮「日本遺族会とその戦争観」『季刊「中帰連」』第02号、中国帰還者連絡会、1997年6月、2010年9月21日閲覧 
  9. ^ a b “首相の出身地、岐阜ゼロなぜ? 識者「家老役多い」「強い野心ない」”. 岐阜新聞 (岐阜新聞社). (2018年10月8日). オリジナルの2021年10月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211010223037/https://www.gifu-np.co.jp/news/20211008/20211008-112204.html 2023年9月4日閲覧。  {{cite news}}: 不明な引数|1=が空白で指定されています。 (説明)
  10. ^ 岩見隆夫 『岸信介 昭和の革命家』学陽書房人物文庫 第2部終章2節"岸を刺した男" pp.273-278(1999年4月)ISBN 4-313-75086-X。初出、文芸春秋1977年11月号『満州の妖怪―岸信介研究』、1978年7月号『権力への野望―岸信介研究・戦後篇』。単行本 学陽書房(1979年)、朝日ソノラマ(1994年)。
  11. ^ 渡邉恒雄『政治の密室』(雪華社、1966年)を参照。
  12. ^ 朝日新聞 1964年3月14日夕刊記事
  13. ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作 下』(新潮社、1987年)を参照。
  14. ^ 伊藤隆御厨貴 編『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社、2000年)を参照。
  15. ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P128(1996年、日本スポーツ出版社

参考文献

  • 『東京岐阜県人綜覧』濃飛往来社、1938年。
  • 人事興信所編『代議士録』人事興信所、1946年。
  • 大野伴睦先生追想録刊行会編集委員 『大野伴睦 小伝と追想記』、1970年。

関連項目

外部リンク

議会
先代
林譲治
衆議院議長
第42・43代:1952年 - 1953年
次代
堤康次郎
先代
新設
衆議院通商産業委員長
1949年 - 1950年
次代
小金義照
先代
本多市郎
衆議院商工委員長
1949年
次代
田中角栄
公職
先代
戸塚九一郎
北海道開発庁長官
第7代:1954年
次代
緒方竹虎
党職
先代
大野伴睦
結党
自由民主党副総裁
第2代 : 1961年 - 1964年
初代:1957年 - 1960年
次代
川島正次郎
大野伴睦
先代
益谷秀次
自由党総務会長
第7代 : 1954年 - 1955年
次代
解党
先代
河野一郎
日本自由党幹事長
第2代 : 1946年 - 1948年
次代
解党

大野伴睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)

永野重雄」の記事における「大野伴睦」の解説

1962年昭和37年)、富士製鐵ビル東京有楽町完成し、そのお披露目招待会に大野伴睦が呼ばれなかったと怒り狂った大野永野からの政治献金少な過ぎるとかねがね不満を持っていたため、これを機に爆発した大野当時自民党一派閥を率い自民党副総裁務め政局左右する力を持った実力者だった。氏家齊一郎岐阜出身ということになっていて大野親しく筆頭秘書中川一郎当時政界進出準備しており、氏家に「オヤジが頭に来てるから、事が大きくならないうちに、永野さんと手打ちできないか」と頼んできた。それを永野伝えると「それは気付かなかった。大野さんを故意オミットするはずないから何かの手違いだろう。さっそく手打ち式にかかろうということになり氏家築地料亭手配した当日大野自分派閥から出ている近藤鶴代福田一従えて定刻夕方6時きっかり乗り込んで来た。ところが永野から氏家電話があり「結婚式にちょっと顔を出すので遅れる」と言うお手打ち式を開いた方が遅れるというのでは、大野猛り立つ恐れがあったので氏家適当にごまかして場をつないだが、そのうちだんだん大野顔つき険悪になり、いつ「もう帰る!」と怒鳴り出すかと冷や汗をかき、もう限界思われたころ、永野悠然現れ、いきなり「大野副総裁御都合1時間延期され7時になった伺ったので時間つぶして来ました。これならもっと早く来ればよかった。いや失礼しました」と頭からかぶせた大野永野が来たら何を言ってやろうか考えていたに違いないが、永野の間のいいセリフ機先制せられた格好で「いやー私こそ早過ぎて」と云ってしまった。当時政界でも喧嘩上手駆け引き上手といわれ、常々「間が大切だといっていたさすがの大野が、永野セリフタイミングのよさに、後手を取らざるを得なくなった氏家は「その時、私は名優芝居引き込まれるような気持で観ていた。あの大野さんを、軽くいなしてしまった永野さんの非凡な何ものかが私を酔わせてしまったに違いない大きな仕事には必ず先行する"根回し"が必要で、永野さんはその面の達人でもあった。今後人生で、このようなスケール持った人に再び会うことが出来だろうか」と述べていた。

※この「大野伴睦」の解説は、「永野重雄」の解説の一部です。
「大野伴睦」を含む「永野重雄」の記事については、「永野重雄」の概要を参照ください。

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