大野伴睦
大野伴睦
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大野 伴睦(おおの ばんぼく[2]、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか[1]〉、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1964年〈昭和39年〉5月29日)は、日本の政治家。
注釈
- ^ この密約自体は孫である安倍晋三が「祖父から直接聞いた」と発言しており、その際に岸は「政治家は目的のためになら嘘をついてもかまわない」と語ったという
- ^ 密約の噂を大野に聞いた渡邉恒雄は念書を保管しているという児玉誉士夫を紹介して貰い、実際にその念書を撮影したという。
- ^ このコメントは一般に、自民党内でささやかれていたもので、俗説との説もある。
- ^ 昭和35年(1960年)の総裁選では、当初岸派が中立を表明していたため大野から岸に念書の有効性の確認を依頼された渡邉が岸の所に赴いたところ、「白さも白し富士の白雪」と言われたという。これは遡ること昭和31年(1956年)の総裁選で岸が大野派の票固めに品川の大野邸に赴いた際、派としての態度は白紙であるとして追い返し、結果として石橋湛山に岸が負けた件を恨みに思った言葉であるという。文藝春秋 2020年2月号『渡辺恒雄・読売新聞主筆が語る、“盟友”中曽根康弘・元総理との60年間。』、BS1スペシャル『独占告白 渡辺恒雄 ~戦後政治はこうして作られた 昭和編』令和2年(2020年)3月7日放送
- ^ この過程については諸説あるが、後に川島が「池田総裁を望んだ岸の指示であった」と語ったとされる。後藤基夫・内田健三・石川真澄『戦後保守政治の軌跡』(岩波書店、1982年)を参照。
- ^ 細かな表現には諸説あり
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『大野伴睦 小伝と追想記』5 - 6、8 - 11、11 - 17、18 - 19、350 - 351頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
- ^ a b c d e f 『代議士録』44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
- ^ a b c d e f 『東京岐阜県人綜覧』132頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月1日閲覧。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第35号 昭和23年6月23日
- ^ 明治大学史資料センター『鵜澤總明と明治大学』 DTP出版、2021年、197-203頁
- ^ 『大野伴睦 小伝と追想記』362頁
- ^ 『官報』第9185号90-91頁 昭和32年8月6日号
- ^ 王希亮「日本遺族会とその戦争観」『季刊「中帰連」』第02号、中国帰還者連絡会、1997年6月、2010年9月21日閲覧。
- ^ a b “首相の出身地、岐阜ゼロなぜ? 識者「家老役多い」「強い野心ない」”. 岐阜新聞 (岐阜新聞社). (2018年10月8日). オリジナルの2021年10月10日時点におけるアーカイブ。 2023年9月4日閲覧。
- ^ 岩見隆夫 『岸信介 昭和の革命家』学陽書房人物文庫 第2部終章2節"岸を刺した男" pp.273-278(1999年4月)ISBN 4-313-75086-X。初出、文芸春秋1977年11月号『満州の妖怪―岸信介研究』、1978年7月号『権力への野望―岸信介研究・戦後篇』。単行本 学陽書房(1979年)、朝日ソノラマ(1994年)。
- ^ 渡邉恒雄『政治の密室』(雪華社、1966年)を参照。
- ^ 朝日新聞 1964年3月14日夕刊記事
- ^ 山田栄三『正伝 佐藤栄作 下』(新潮社、1987年)を参照。
- ^ 伊藤隆・御厨貴 編『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社、2000年)を参照。
大野伴睦
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1962年(昭和37年)、富士製鐵ビルが東京有楽町に完成し、そのお披露目の招待会に大野伴睦が呼ばれなかったと怒り狂った。大野は永野からの政治献金が少な過ぎるとかねがね不満を持っていたため、これを機に爆発した。大野は当時自民党で一派閥を率い自民党副総裁を務め、政局を左右する力を持った実力者だった。氏家齊一郎は岐阜の出身ということになっていて大野と親しく、筆頭秘書の中川一郎は当時政界進出を準備しており、氏家に「オヤジが頭に来てるから、事が大きくならないうちに、永野さんと手打ちにできないか」と頼んできた。それを永野に伝えると「それは気付かなかった。大野さんを故意にオミットするはずないから何かの手違いだろう。さっそく手打ち式にかかろう」ということになり氏家が築地の料亭を手配した。当日、大野は自分の派閥から出ている近藤鶴代と福田一を従えて定刻の夕方6時きっかりに乗り込んで来た。ところが永野から氏家に電話があり「結婚式にちょっと顔を出すので遅れる」と言う。お手打ち式を開いた方が遅れるというのでは、大野が猛り立つ恐れがあったので氏家が適当にごまかして場をつないだが、そのうちだんだん大野の顔つきが険悪になり、いつ「もう帰る!」と怒鳴り出すかと冷や汗をかき、もう限界と思われたころ、永野が悠然を現れ、いきなり「大野副総裁の御都合で1時間延期されて7時になったと伺ったので時間をつぶして来ました。これならもっと早く来ればよかった。いや失礼しました」と頭からかぶせた。大野は永野が来たら何を言ってやろうか考えていたに違いないが、永野の間のいいセリフに機先を制せられた格好で「いやー私こそ早過ぎて」と云ってしまった。当時政界でも喧嘩上手、駆け引き上手といわれ、常々「間が大切だ」といっていたさすがの大野が、永野のセリフのタイミングのよさに、後手を取らざるを得なくなった。氏家は「その時、私は名優の芝居に引き込まれるような気持で観ていた。あの大野さんを、軽くいなしてしまった永野さんの非凡な何ものかが私を酔わせてしまったに違いない。大きな仕事には必ず先行する"根回し"が必要で、永野さんはその面の達人でもあった。今後の人生で、このようなスケールを持った人に再び会うことが出来るだろうか」と述べていた。
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