中山マサ
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中山 マサ
なかやま まさ
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1952年
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| 生年月日 | 1891年1月19日 |
| 出生地 | 長崎県長崎市 |
| 没年月日 | 1976年10月11日(85歳没) |
| 出身校 | 活水高等女学校 オハイオ・ウェスリアン大学 |
| 前職 | 教員 |
| 所属政党 | (無所属→) (民主党→) (無所属/民主クラブ→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章(1965年) |
| 配偶者 | 中山福蔵 |
| 親族 | 中山太郎(長男) 中山正暉(四男) 中山泰秀(孫) |
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| 内閣 | 第1次池田内閣 |
| 在任期間 | 1960年7月19日 - 1960年12月8日 |
| 選挙区 | 大阪府第2区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 | 1947年4月26日 - 1963年10月23日 1967年1月30日 - 1969年12月2日 |
中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の政治家。位階は従三位。
日本初の女性閣僚(厚生大臣)。衆議院議員などを歴任。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山讓治(実業家)と中山泰秀(元衆議院議員)は孫。
来歴・人物
長崎県長崎市にアメリカ人の父ロドニー・H・パワーズ(Rodney H. Powers)と日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた。
地元の活水高等女学校を卒業して、1911年にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業[1]。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。また弁護士の中山福蔵(戦前は立憲民政党所属の代議士、戦後参議院議員となる)と結婚。
戦後の1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧大阪2区より立候補し当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・園田直・原田憲・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。以後当選8回。民主党に入党し、民主党では幣原喜重郎派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。保守合同後は大野伴睦→船田中派に所属した。1953年、第5次吉田内閣で厚生政務次官。
1960年、日本初の女性閣僚として、第1次池田内閣で厚生大臣として入閣する[2](中山の入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳)。在任期間は5ヶ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。1969年の総選挙には立候補せず、四男・正暉に地盤を譲り、政界から引退した。
1965年4月の春の叙勲で勲一等に叙され、瑞宝章を受章する[3]。
1976年10月11日、死去。85歳没。翌12日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙され、銀杯一組を賜った[4]。
脚注
出典
出典
- ^ 長崎女性偉人伝 > 中山マサ
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、100頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 『官報』第11513号15頁 昭和40年4月30日
- ^ 『官報』第14932号9頁 昭和51年10月15日
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 渡邊良夫 |
第34代:1960年 |
次代 古井喜実 |
| 議会 | ||
| 先代 河野金昇 |
次代 若林義孝 |
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