こうせい‐しょう〔‐シヤウ〕【厚生省】
厚生省
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厚生省(こうせいしょう、Ministry of Health and Welfare)は、かつて存在した日本の行政機関である。医療・保健・社会保障などを所管していた。
- ^ 満, 佐藤「厚生労働省はどういう省か / その生い立ちから考える」。
- ^ 厚生省公衆衛生局編「検疫制度百年史」ぎょうせい、1980年3月、p.64 原出典は「内務省史」
- ^ “厚生労働省移管文書の特徴 第一節” (PDF). 2020年5月17日閲覧。
- ^ a b c コラム<どーせなら、覚えちゃお! Vol.36>Q:厚生労働省、各局の役割分担は?<後編> 医政局と医薬・生活衛生局 医薬情報研究所2016年7月4日
- ^ a b 月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2000年12月号(第20巻 通巻233号) > 厚生労働省の発足について 宮島俊彦
厚生省
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 10:19 UTC 版)
「国立病院立ち枯れ作戦」の記事における「厚生省」の解説
厚生省の課長補佐クラスの任意の勉強会によるもので公式文書ではなく、また1990年(平成2年)というかなり前の部内資料であると宮下創平厚生大臣が1999年(平成11年)2月4日の予算委員会で答弁し、「項目のなかには生きているものもあるし、ルール化されたものもある」と答え、文書の存在を認めた。また、厚生労働省国立病院部企画課は「国立の医療機関はがんや循環器病など19分野の政策医療に特化し、その他の一般医療は必要性がなければ廃止する」と説明した。
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厚生省(衛生二課)
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「ジオブリーダーズ」の記事における「厚生省(衛生二課)」の解説
入江 省三(いりえ しょうぞう) 声 - 山寺宏一 一応公安部外事二課から厚生省への出向という形になっているが、それ以前にも各省庁を転々としていて本来どこに所属しているのかは不明とされている謎の男。入江のことをどの方面へ問い合わせても「彼の行動を妨げてはならない」「彼の行動を理解しようとしてはならない」と回答される。慇懃無礼で掴みどころがない。心理戦に長け、銃の扱いも心得ているため生還能力が高い。 張り込みの時にパンと飲み物は欠かせないらしく、ほとんどの場合盗聴しつつ飲み食いしている。また、他人が残していた食べ物も自分が貰おうとする等、結構食い意地が張っているところもある。ただ、こしあんのあんぱんは嫌いらしい。 にこやかな表情をして人当たりは良いものの、実際はかなり冷酷。化け猫による損害が大きくなるたびに権限を拡大され職務を丸投げされてきたらしく、核弾頭争奪戦においては、任務のために犠牲者が出ることを厭わず遂行せよと命じている。また平然と自ら手を汚すこともある。これは、後述の「LAWMAN」でも同じである。田波いわく「悪党」。 昭和51年にも現在と同じ容姿の入江省三なる人物がいたが、現在の入江省三と同一人物かは不明。 作者の別作品『LAWMAN』(ロウマン)と、そのリニューアル版である『LAWMANs』(ロウマンs)にも同じ名前、(ほぼ)同じ容姿のキャラクターが登場する。 上記『LAWMANs』に書き下ろされた短編「LAWMEN」を公式設定に含めるなら、台詞から大蔵省、外務省、労働省にも「入江省三」は存在する。なお、同短編中では、合計13人の入江(と思しき)人物が登場し、執筆当時の中央省庁の数(一府十二省庁)に符合する。 箏井(ことい) 入江の秘書役の女性で、元防災センター職員。とある事件の際に綾金市の防災センターで指揮を執った入江が、防災センターから引き抜いた。つかみ所の無い入江に対して臆することなく淡々と端的な意見を述べられる希有な人物。 絵心があるという特技がある。
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厚生省
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1984年、厚生省の附属機関である国立衛生試験所に転じ、食品部の主任研究官に就任した。さらに、1989年には、国立衛生試験所の食品添加物部にて室長に昇任した。なお、1997年に国立衛生試験所が国立医薬品食品衛生研究所に改組されたが、そのまま勤務を続けた。 2000年、国立医薬品食品衛生研究所の食品添加物部にて、部長に就任した。さらに、2002年には、国立医薬品食品衛生研究所の食品部にて部長に就任した。2008年3月31日、定年退職にともない、国立医薬品食品衛生研究所食品部の部長を最後に厚生労働省を退官した。
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厚生省
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1967年(昭和42年)、厚生省環境衛生局環境衛生課。1973年(昭和48年)、三重県福祉生活部児童老人課長。1975年(昭和50年)、厚生省保険局保険課長補佐。1977年(昭和52年)、厚生省大臣官房総務課長補佐。1981年(昭和56年)に厚生省年金局年金課長。 1984年(昭和59年)、厚生省年金局年金課長だった山口は、「年金の神様」との異名を持ちながらも癌と闘病中の年金局長山口新一郎、同年6月からは山口新一郎の後任局長の吉原健二(後に厚生事務次官)の下で仕え、1985年(昭和60年)には吉原と共に「年金制度大改正」を手がけた。それ以降、山口は「年金制度のスペシャリスト」と省内で呼ばれるようになった。また、この制度大改正により、当時の40歳世代以下から、前世代の70%程度に将来的な年金支給額が減額されることとなったのをはじめ、その後の年金支給年齢の引き上げなどの年金財政の健全化のための制度改正の端緒となったとされている。。課長時代の部下の課長補佐に浅野史郎(前宮城県知事)らがいて、浅野は山口課長の下で2年あまり仕えていた。 1992年(平成4年)に年金局長を経て、1994年(平成6年)から厚生省にて大臣官房長に、1996年(平成8年)の薬害エイズ問題の渦中にあったが、同年に保険局長を経て、特別養護老人ホーム汚職事件での岡光序治の退任を受け、同年11月に後任の厚生事務次官に就任した。また、次官在任中には年金記録問題が判明するきっかけとなった基礎年金番号が1997年(平成9年)から導入された。さらに、介護保険法、臓器移植法も次官在任中に成立させた。 歯に衣着せぬ言動で厚生族議員の敵も多く、次官就任も異例であったとされている。一方で、部下だった浅野史郎によれば、上司や部下から「仏の山口」と慕われるほど温厚な人柄の人物だったという。
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厚生省
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:41 UTC 版)
2019年11月に国立公文書館が開示決定した公文書の中に、1950年9月に厚生省復員局留守業務第3課(当時)が取り残された軍医や軍人の状況を把握するために作成した文書「業務通報(B)第50号 関東防疫給水部」が、2020年2月6日までに西山勝夫滋賀医大名誉教授によって発見された。文書の中に本部第一部が細菌研究と第四部が細菌生産など部隊構成や敗走経路から帰国するまでの経路、抑留された人数なども書かれていた。
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