こいずみ‐じゅんいちろう〔こいづみジユンイチラウ〕【小泉純一郎】
小泉純一郎
小泉純一郎
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小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本の政治家。
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注釈
- ^ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 2006, p. 147)。藤原肇によると「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」という(藤原肇 2005, pp. 39-40)。彫り師凡天太郎によると「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」という(岩崎大輔 2006, p. 58)
- ^ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎によれば「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。精神的な病気でおかしくなって、おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、精神がおかしくなり、事件を起こし逮捕歴があり、そのままロンドンにほとぼりが冷めるまで、遊びに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」という[2]
- ^ 小泉は平成初頭に行われたインタビューで「小選挙区制になるとね、組織から資金から人事からもう全て党の一部幹部に集中される訳ですよ。執行部の気に沿わないことが言えなくなる状況が生まれる恐れが出てくる。恐ろしいことですね」と反対理由を語っているが、皮肉なことに自らが政権をとったときには小選挙区制の後押しを受けて選挙で地滑り的勝利を収めて中央集権化を進めることとなる[7]。
- ^ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
- ^ 紺谷典子は、「防衛庁長官だった純也氏の急死で、ロンドンから呼び戻され・・最初の衆院選に僅差で敗れた。・・特定局長たちが・・もう一人の自民党議員に鞍替えしたせいだと言われている。鞍替えの理由は、地元の横須賀では良く知られた話だそうで、私自身地元財界の人々から口々に聞かされた。小泉氏の人間性を強く疑わせる事件があったそうである」と述べている[22]。
- ^ 小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』の11巻では「いろいろ意見を持っている方がいるから、造るんだったらいいものを造りたい、私も(国立墓地を)前から考えていた。」という小泉の戦没者を慰霊する国立墓地検討に対する批判があった。
- ^ 安倍長官は衆院予算委で「政治問題を達成するために『会わない』という外交手段をテコに使うのは明らかに間違っている」と批判。麻生外相も 「一つの問題だけでほかの問題もすべてダメで、話も面会もない形は少々異常だ。靖国の問題で会わないのは中国だけだ」と同調した。
- ^ 1992年に次いで2008年にも天皇・皇后も招待する予定だったが、その予定を断った。
- ^ 作家火野葦平著『青春の岐路』によると、「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」という。猪野健治著『侠客の条件 吉田磯吉伝』170-171頁によると「やくざ組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級武士、浪人、人足、農民、職人等であり、明治以降、昭和にかけては、没落士族、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき名誉も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する任侠道とは、階級意識の原始的顕現に他ならない。」という
- ^ 猪野健治著『やくざと日本人』211頁によると、「博徒の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。戦後でいう“手配師”がそれだが、戦前は単に労務者を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。大正、昭和の炭鉱、鉱山、工事現場、沖仲仕等の“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが労働者を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。明治以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの近代化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」という
出典
- ^ 岩崎大輔 2006, p. 83.
- ^ 【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」
- ^ a b c 梅田功 2001, p. 125.
- ^ 梅田功 2001, pp. 125-126.
- ^ 岩崎大輔 2006, pp. 176-177.
- ^ 神一行 2002, p. 243.
- ^ 安井, 浩一郎 (2019年1月31日). “発掘された後藤田正晴の“遺言” 平成政治史の“劇薬”小選挙区制導入とは何だったのか?”. 文春オンライン. 2020年3月4日閲覧。
- ^ 1993年5月7日、閣議での発言
- ^ 『朝日新聞』1993年5月7日
- ^ 『朝日新聞』1993年5月14日夕刊
- ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会, ed (2007). 私の後藤田正晴. 講談社. p. 307
- ^ AERA 2001年5月14日号 朝日新聞出版
- ^ “幹事長打診でつまずいた「加藤の乱」 山崎拓氏が語る” (日本語). 日本経済新聞 電子版. 2020年10月12日閲覧。
- ^ [飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]
- ^ 空回り小泉チルドレン…小池擁立も失敗、福田支持へ(2007年9月14日 産経新聞)}[リンク切れ]
- ^ 『週刊FLASH』2008年6月10日号
- ^ 時事ドットコムニュース>特集>「原発「即ゼロ」を 小泉純一郎元首相」
- ^ 2011年7月26日に行われたシンポジウム「震災後の日本経済を展望する」における発言など
- ^ 産経ニュース 小泉純一郎元首相ら「原発ゼロ基本法案」発表 2018.1.10 18:20
- ^ 小泉元首相ら「原発ゼロ」法案「国民の賛同で必ず実現」
- ^ a b 紺谷典子『平成経済20年史』 [要ページ番号]
- ^ 紺谷典子『平成経済20年史』 [要ページ番号]
- ^ 共同通信2001年8月17日、テレビ朝日清水建宇コラム10月17日
- ^ a b 飯島勲 2006, pp. 81-100.
- ^ 毎日放送2006年9月6日報道
- ^ 飯島勲 2006.
- ^ “小泉首相「韓、中首脳会談拒否、後悔するだろう」”. 中央日報. (2006年9月12日)
- ^ 対外タスクフォース
- ^ “小泉総理大臣 中国人民抗日戦争記念館訪問後の小泉総理の発言” (プレスリリース), 外務省, (2001年10月8日)
- ^ また小泉は盧溝橋記念館で「忠恕」と揮毫した。
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ ローラ・ブッシュ『ローラ・ブッシュ自伝』中央公論新社、2015年、p330
- ^ 小泉総理の動き 米国・中東訪問(第1日) 首相官邸ホームページ、2003年5月22日
- ^ a b c d e f g 飯島勲 2007.
- ^ 「日本経済新聞」朝刊 『私の履歴書 トニー・ブレア』2012年1月28日
- ^ 浅川 2001、80-81頁。
- ^ 文藝春秋2004年7月号「ポスト小泉の資格を語ろう」
- ^ 梅田功 2001, p. 38.
- ^ “女性チルドレンがチョコ 首相は受け取らず”. 共同通信社. 47NEWS. (2006年2月14日). オリジナルの2014年5月25日時点におけるアーカイブ。 2016年6月23日閲覧。
- ^ “小泉純一郎衆議院議員の経団連常任理事会における挨拶”. 内閣府. 2020年1月23日閲覧。
- ^ 岩崎大輔 2006, pp. 24-53.
- ^ 藤原肇 2005, pp. 193-194.
- ^ 佐野眞一 2004, p. 146.
- ^ “小泉純一郎が英紙に本音「安倍首相の再選は難しい」 | それから「私は変人ではありません、非凡なのです」” (日本語). クーリエ・ジャポン 2018年8月28日閲覧。
- ^ ローラ・ブッシュ『ローラ・ブッシュ自伝』中央公論新社、2015年、p422-423
- ^ 連珠世界1973年12号
- ^ エスエンタープライズ
- ^ 梅田功 2001, p. 28.
- ^ 梅田功 2001.
- ^ 藤原肇 2005, p. 29.
- ^ a b c d e f 宮崎学 2008, pp. 54-55
- ^ 佐野眞一 2006, p. 146.
- ^ a b c d e f g 大林高士. “未公開ノンフィクション 小泉首相の祖父刺青大臣又次郎”. News Land 編集室. 2012年1月1日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b 梅田功 2001, p. 84.
- ^ 佐野眞一 2006, p. 156.
- ^ a b 佐野眞一 2006.
- ^ 梅田功 2001, p. 87.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 155-156.
- ^ “小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導”. 朝鮮日報. (2005年10月20日)
- ^ a b c 佐野眞一 2006, p. 148.
- ^ a b 佐野眞一 2006, p. 147.
- ^ 佐野眞一 2006, p. 150.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 191-192.
- ^ 小泉純一郎氏 絶縁状態だった三男の結婚式に出席、出席者涙
- ^ 佐野眞一 2006, p. 157.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 157-158.
- ^ 梅田功 2001, p. 17.
- ^ 神一行 2002, pp. 236-237.
- ^ 梅田功 2001, pp. 123-234.
- ^ “小泉総理の演説・記者会見等 : 内閣総理大臣談話” (プレスリリース), 外務省, (2005年8月5日)
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