高田浩運とは? わかりやすく解説

高田浩運

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/04 05:19 UTC 版)

高田浩運
たかた こううん
生年月日 1914年2月4日
出生地 熊本県玉名市
没年月日 (1977-07-17) 1977年7月17日(63歳没)
死没地 東京都目黒区
東京国立医療センター
出身校 東京帝国大学
前職 厚生省事務次官
所属政党 自由民主党
称号 従三位
勲二等旭日重光章

選挙区 熊本県選挙区
当選回数 2回
在任期間 1968年7月8日 - 1977年7月17日
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高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 1977年7月17日)は、日本政治家厚生官僚位階従三位勲等は勲二等。参議院議員(2期)。

経歴

1914年大正3年)熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校第五高等学校を経て、1936年昭和11年)、東京帝国大学卒業後、内務省に入省する。1937年(昭和12年)に香川県警警務課長

1941年(昭和16年)に厚生省に配転され、1945年(昭和20年)より同省庶務課長、1955年(昭和30年)より医務局次長、1956年(昭和31年)より児童局長、1960年(昭和35年) より官房長、1962年(昭和37年)4月より保険局長を経て、同年7月社会保険庁長官に就任。1963年(昭和38年) に厚生事務次官となる。

1965年(昭和40年)2月、事務次官を退き厚生省を退官。同年7月の第7回参議院議員通常選挙熊本地方区(改選数2)から 自由民主党公認で立候補するも、3位で次点となる。その後、1968年(昭和43年)第8回参議院議員通常選挙に再び熊本地方区から立候補しトップ当選。1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙でも再選する。

しかし、2期目途中の1976年暮れに病に倒れて療養していたが、議員在職中の1977年(昭和52年)7月17日、転移性肝腫瘍のため東京国立医療センターで死去した[1]。63歳没。同月22日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付をもって従五位勲五等から従三位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[2]哀悼演説は同月30日、参議院本会議で上田哲により行われた。

高田の死去に伴う欠員補充の補欠選挙は同年9月4日に執行され、自民党公認の田代由紀男が当選し、議席を継承している。

元秘書

脚注

  1. ^ 第81回国会 参議院 本会議 第3号 昭和52年7月30日
  2. ^ 『官報』第15162号13-14頁 昭和52年7月26日号
議会
先代
柳田桃太郎
参議院内閣委員長
1972年 - 1973年
次代
寺本広作




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