竹下豊次とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 竹下豊次の意味・解説 

竹下豊次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/09 05:19 UTC 版)

竹下豊次

竹下 豊次(たけした とよじ、1887年明治20年)2月2日1978年昭和53年)4月25日[1])は、大正から昭和期の官僚政治家貴族院多額納税者議員参議院議員緑風会)。

経歴

宮崎県、のちの南那珂郡福島町[2](現串間市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ[3]1912年大正元年)高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県警部となった。以後、同県警視製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した[3]1922年(大正11年)、国際労働会議政府代表道家斉の随員として渡欧[3]国際労働機関に勤務し、第5回及び第6回国際労働会議の政府代表顧問を務めた[3]

1924年(大正13年)に帰国し、社会局書記官、長野県警察部長に在勤。 1926年(大正15年)、長野県下の警察署の統廃合を契機に抗議運動が活発化(いわゆる警廃事件)。同年7月18日、群衆が県知事公舎や警察部長官舎を襲撃、官舎にいた竹下は下駄棍棒などで殴打された[4]。同年8月、依願免官。 1928年(昭和3年)、台湾総督府社会課長、同地方課長を歴任し、勅任事務官に昇進した[3]1932年(昭和7年)、台中州知事に就任し、1935年(昭和10年)には関東州庁長官に転じた[3]

退官後の1939年(昭和14年)に貴族院議員に選出され、1947年(昭和22年)に貴族院が廃止されるまでその職にあった。同年の第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選[1]第3回参議院議員通常選挙でも再選を果たした。その間、第2次吉田内閣労働政務次官を務めた[1]

1964年(昭和39年)秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲三等からの昇叙)[5]

1978年4月25日、老衰のため東京都世田谷区田園調布の自宅にて死去。91歳[6]。死没日をもって従四位から従三位に叙される[7]

脚注

  1. ^ a b c 『新訂 政治家人名事典』361頁。
  2. ^ 『宮崎県政外史』651頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第11版(下)』
  4. ^ 「長野県は無警察状態に」『大阪毎日新聞』1926年7月19日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.520 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号
  6. ^ 訃報欄 竹下豊次(たけした・とよじ=元参院議員)『朝日新聞』1978年(昭和53年)4月21日夕刊、3版、11面
  7. ^ 『官報』第15395号17-18頁 昭和53年5月12日号

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1937年。 
  • 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 

関連項目

議会
先代
森田義衛
参議院建設委員長
1958年
次代
上林忠次
先代
河井彌八
参議院内閣委員長
1952年 - 1953年
次代
小酒井義男
先代
高田寛
参議院議院運営委員長
1950年
次代
左藤義詮



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹下豊次」の関連用語

竹下豊次のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹下豊次のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹下豊次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS