りくぐん‐しょう〔‐シヤウ〕【陸軍省】
陸軍省
陸軍省
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二・二六事件後に皇道派と統制派などの陸軍内の派閥解消がはかられ、とくに皇道派については粛軍人事によって多くが予備役行きとなった。阿南は陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことから、8月に軍紀・風紀の監督部署として軍務局から分離・独立した兵務局長に就任した。これは、主導権を握った統制派が、皇道派弾圧のため、阿南を看板に利用したという意味合いもあったが、阿南の高潔な人柄と政治的な無色さは全軍に知れ渡っており、誰にも文句のつけようのない人事であった。こののち、阿南は陸軍中枢の要職で戦争遂行や敗戦に深く関わっていくこととなっていった。 翌1937年(昭和12年)には陸軍省人事局長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。陸大の同期生で、上官や上層部に対する歯に衣着せぬ発言で知られる石原莞爾も阿南には生涯にわたって好意を抱き続けた。石原は自分にない阿南の円満な人格を高く評価し、滅多に人の意見を肯定しない石原が阿南の意見だけは「阿南さんがそういうならよかろう」と肯定して周囲を驚かせたこともあった。阿南が人事局長時代に力を入れたことのひとつが将校の不足解消であった。不況による軍事費削減で日本陸軍は現役将校不足に悩まされており、阿南は陸軍次官の梅津美治郎中将が呆れるほどに、各方面に将校不足を説いて回り、ついには800名増員を実現している。 1938年(昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。これは英邁と名高かった秩父宮を、老齢の現参謀総長閑院宮載仁親王と交代させたいという意向の人事であったが、いくら英邁とは言え秩父宮はまだ陸軍大学を卒業して7年しか経っておらず、大佐にすら昇進していなかった。軍規に厳格な阿南はこのような特例人事には批判的で「参謀総長は陸軍大将、中将であることを要し、いかに皇族だからといって階級は級を追って進むべきである」と拒否し、部下の人事局補任課長額田坦中佐に、そのような特例人事が不可能である旨の意見書の作成を命じて、板垣に提出している。参謀本部は1度では諦めず、3週間後にもう1度同じ発議があったが、阿南は前回と同様な手順でこれを拒否している。このことで阿南は板垣や参謀本部から煙たがられることとなった。 阿南が軍規に厳格であったことを示すエピソードとして、ある日部下と「忠臣蔵」の話になったとき阿南は「忠臣蔵の大石内蔵助は忠臣の鑑とたたえられているが、私は同意できない。大石は法を犯している時点で褒められるべきではなく『道は法を越えず』でならなければならぬ」と部下に諭して聞かせたことがあった。
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陸軍省
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「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「陸軍省」の解説
1901年、ヘンリーは、陸軍省でイアン・モンティス・ハミルトン将軍(英語版)の下で勤務して9か月間を過ごし、直近の南アフリカにおける戦争の論功行賞の配分作業を行った。ヘンリー自身も「行動力と成功」を示した「非常に有能な士官」として殊勲者公式報告書に掲載され、また殊功勲章(DSO)を獲得した。アイルマー・ホールデイン将軍は後に、将軍が殊功勲章(DSO)を得たことを妬んで、ヘンリーは自身にも受賞を強要したのだと主張した)。ヘンリーはまた、正式な少佐になることにより、中佐への名誉進級(英語版)にも推薦された。 12月31日、ヘンリーは、自尊心の傷付きが勲章の配分に影響を与えたことについて、その配分の仕事で何人かの古い友人を失ったが、その人数は多くないと信じるとコメントした(ニコルソンとケリー・ケニー副将は、二人ともそれは認識不足であると感じている)。 1901年3月から5月の間、自由統一党の下院議員、ウィリアム・ヘンリー・ラティガン(英語版)の命令において、また、セントジョン・ブロドリック (初代ミドルトン伯爵)による陸軍の再編成の提案を背景として、ヘンリーは(「参謀将校」という匿名で)パキスタン・ラホール市で発行されていた英字新聞シビル・アンド・ミリタリー・ガゼット(英語版)において、陸軍の再編成についての12回にわたる記事を発表した。彼は、最近の大英帝国の大規模な成長により、もはや海軍だけに依存することはできず、また、陸軍の3つの主任務についても主張した。それらは、①母国防衛、②インド(対ロシア)、エジプト及びカナダの防衛(対米国。ヘンリーはそれでもなお英国は同国と友好関係を続けることを希望した)、③英国海軍が使用する主要な石炭基地と港の防衛である。ヘンリーは、この段階ではセントジョン・ブロドリックと異なり、英国が欧州の戦争に巻き込まれるようになることを明確に排除していた。彼はまた、英国は主要な植民地なしではスペイン帝国と同じ運命をたどるとも主張した。彼は、ブロドリックが提案した12万人ではなく、25万人の男性を海外派遣可能にすること及び徴兵制度の導入(リベラルな野党に除外されていた)についての検討を求めた。ヘンリーは、非公式に南アフリカのヨーマン部隊を(いくらかはその劣った能力に動機付けされて)訓練し、他の陸軍省の士官は、ブロドリックが紙上で進んで認めるよりも更に再編成の提案に敬意を示さなかった。
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陸軍省
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陸軍省の次官は次の通り。詳細は陸軍次官の項目を参照。 アメリカ合衆国陸軍次官
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陸軍省
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召集令状(赤紙・白紙・青紙)は陸軍省が作成した動員計画に基づき連隊区司令部で対象者を指定して発行される。 発行された令状は最寄の警察署の金庫に密封保管され、動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参し、役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付した。令状は本記と受領証の2枚からなり、本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれ、これは部隊までの交通切符代わりになる。受領証は受取人が受領日と時刻を分単位で記入、捺印の上で官吏に渡す。官吏はこれを役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管していた。 本記の表面には、召集される者の氏名、配属される部隊名、部隊に出頭すべき日時などが記載される。裏面には、伝染病など理由あって期日までに部隊に出頭できない場合の連絡先、応召集員の心得などの備考及び注意事項が記載されていた。また、理由なく召集に応じなかった場合、罰金刑もしくは拘留に処せられると書かれている。 召集令状は、役場の兵事係から本人や家族に直接渡されるのが原則で、応召した本人が兵営へ持参し提出するため、現存するものは極めて少ない。
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