陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置
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「日本の脚気史」の記事における「陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置」の解説
陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げ続けて孤軍奮闘する中(ときには火に油を注ぐようにして陸海軍の対立をあおった)、1908年(明治41年)、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日陸軍大臣官邸で発足式)。当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、多額の陸軍費がつぎ込まれた。 発足当初の調査会は、会長(森・医務局長)と幹事(大西亀次郎医務局衛生課長)、委員17名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計21名で構成された。委員17名の所属を見ると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参加したほか、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大1名、東京帝大3名、医師2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であった。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、定期的に発表された。
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