陸軍第1次編制1955年から1959年
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「ドイツ陸軍 (ドイツ連邦軍)」の記事における「陸軍第1次編制1955年から1959年」の解説
連邦軍と連邦陸軍の実際の歴史は、1955年11月12日にアンダーナッハで実施された初の徴兵が始まりとなる。連邦陸軍はその創設からドイツ敗戦と国防軍崩壊まで約10年間の空白期間があったが、新生陸軍については1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したドイツ軍人達やプロイセン改革の伝統を継承するとされた。しかし、長期間の空白のため軍事技術の欠落は深刻で、再軍備にあたっては旧国防軍幹部の力を必要とした。初代陸軍総監にはハンス・レッティガー陸軍中将が就任した。レッティガーはヒンメロート覚書の作成に関与していた。1989年の冷戦の終結までNATOとワルシャワ条約機構の対立は連邦陸軍の歴史を決定的なものにした。 連邦陸軍はその設立当初からNATOの指揮構造に組み込まれ、1959年までの陸軍第1次編制で12個師団を提供することになっていた。1966年まではソビエト連邦軍の通常戦力は大規模で、NATOの戦略は大量報復戦略(核戦略)に依存していた。1956年に連邦陸軍の最初の部隊と陸軍学校の建設が始まり、アンダーナッハにて7個教育中隊が編成される。1957年4月1日に連邦陸軍最初の徴集兵が招集される。計画された12個師団は歩兵、装甲、装甲擲弾兵の各種は6ヶ月間に2つのグループ毎に編成される事になっていた。しかしながら計画された12個師団はその全てが1959年までNATOの指揮下に入ったわけではなかった。1958年末時点では連邦陸軍の戦力は約100,000名を達成し、アメリカ合衆国から資器材が引き渡され、初めてM47戦車が配備される。 連邦軍の地上戦力は当初、連邦陸軍と第四の軍種として地域軍(郷土防衛軍)(ドイツ語版、英語版)が国防省の下にあった。このうち連邦陸軍はNATOの指揮構造に結合された。1957年に地域軍(郷土防衛軍)は「領土防衛局(Amt für territoriale Verteidigung)」後に「領土防衛司令部(Kommando Territoriale Verteidigung)」に改称した組織の下におかれた。領土防衛司令部は連邦国防省直轄とされる。狭義の意味では領土防衛のために別系統の陸軍、海軍、空軍が設けられた。地域軍部隊は連邦政府(西ドイツ国家主体)の指揮下に置かれ、完全にNATOの指揮下には置かれてはいなかった。
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