陸軍第2次編制1955年から1970年
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「ドイツ陸軍 (ドイツ連邦軍)」の記事における「陸軍第2次編制1955年から1970年」の解説
ソビエト連邦の戦術核兵器の進歩は陸軍第1次編制の最終取得前に新たな問題を生じさせ、次期陸軍編制が始まる。連邦陸軍は戦場での戦術核兵器の被害を極限するため師団の規模を最大で約28,000名の将兵で構成し、師団にはより小型で機動的な部隊として旅団が編制に組み込まれる。装甲旅団には2個戦車大隊、1個装甲擲弾兵大隊、1個装甲砲兵大隊、1個補給大隊での編制が標準とされ、装甲擲弾兵旅団は1個戦車大隊、2個装甲擲弾兵大隊、1個装甲砲兵大隊、1個補給大隊で構成された。擲弾兵師団は装甲擲弾兵師団に改称される。1959年末時点では11個師団、27個旅団は編成されていた。野戦軍には1959年時点で約148,000名規模を有し、地域軍は1960年初頭に最初の非現役の猟兵大隊と警備中隊を編成する。1965年には整備計画中36個旅団のうち34個旅団が編成済みで、12個師団はNATO運用計画部に対し活動中であると報告された。1969年に連邦陸軍は約305,000名規模に成長した。 1967年にはNATOの正面防御ドクトリンは大量報復戦略から柔軟反応戦略(en:Flexible response)に転換し、防衛戦力の転換を促した。連邦陸軍はニュークリア・シェアリングの一環で1969年に核兵器投射能力を有する3個ロケット砲兵大隊と同能力を持つ2個砲兵大隊が新たに計画される。新兵器システム(国産兵器など)は陸軍第2次編制から調達される。戦車部隊にはアメリカ合衆国から供与されたM48戦車、後にレオパルト1戦車が配備される。装甲擲弾兵部隊には当初不祥事にまみれ能力も非効率的なSpz HS.30装甲車が調達され、以降は国産のマルダー歩兵戦闘車が配備される。さらに連邦共和国は銃器やロケット駆逐戦車、M113装甲兵員輸送車や輸送ヘリコプターUH-1を調達する。 1961年から領土防衛についての計画部隊は予備役兵で補充されていた。領土防衛の中央指揮権限については1969年に3つの新しい師団級地域司令部を編制し北部地域司令部、南部地域司令部、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地域司令部に分けられた上で、連邦陸軍の内部に統合され「野戦軍」(NATOの指揮下)と「地域軍」(ドイツ国家の指揮下)となる。
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