第2次若槻内閣
第2次若槻内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:58 UTC 版)
「第2次若槻内閣」も参照 次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年(1931年)4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蔣介石の北伐の完成により条約上の危機に瀕していた(中華民国蔣介石政府は1928年7月19日に日清通商航海条約の一方的破棄を宣言しており、日本政府はその無効を主張していた。さらに懲弁国賊条例により間島や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害されていた)。9月18日には柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには内務大臣・安達謙蔵が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。
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