政友会への復党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:56 UTC 版)
昭和4年(1929年)第56回帝国議会の後、床次は中国を視察旅行した。その前後に田中首相と会談した床次は対中政策について意見交換を行い、この時に床次が外相を打診されたと風聞が流されたが床次は連立を否定した。7月2日、田中内閣が失策により退陣した。続いて民政党の浜口内閣が成立し、政友会の田中総裁引退が決定的な情勢の5日に新党倶楽部は政友会に合流した。床次は政友会復帰を果たしたが、露骨な総裁狙いの行為が世論に批判された。この動きの背後には秋山定輔がいたという説があることを伊藤隆が自著で触れている。また、民政党からの離脱は床次に対する貴族院最大会派である研究会からの支持を失わせることとなった。9月に田中義一が病死すると、最大派閥の鈴木喜三郎の対立候補として床次の名が上がったが、党内融和の優先方針と元老西園寺公望からの首相推奏の可能性から犬養毅が政友会総裁となった。 第2次若槻内閣が辞職し、昭和6年(1931年)12月13日に犬養内閣が成立し、政友会に政権が移った。床次も鉄道大臣として入閣した。昭和7年(1932年)犬養毅首相が五・一五事件で暗殺されると、既に党の主導権を握っていた鈴木喜三郎派への反感が床次支持へ集まり、党内抗争が激化した。なお、五・一五事件以前に発生した血盟団事件でも、床次・鈴木ともに政党の有力者として襲撃の対象に選ばれていた。反鈴木派の望月圭介、岡崎邦輔は鈴木派との関係が悪化していた久原房之助と協議して内閣総理大臣臨時代理の高橋是清を暫定総裁とし、固辞の場合は高橋の指名に従うとの筋書きを準備していた。しかし総裁公選へ持ち込めば多数で勝利の見込みであり、党内主要ポストを抑えていた鈴木派では暫定総裁案に議事を持ち込ませず、床次派が党内支持を纏めきっていない状態を看破し、党を割ることも辞さない強硬姿勢を見せて床次の立候補を辞退させ、5月17日の党委員会で鈴木の総裁への推戴が決定した。このように床次は再び政友会の後継総裁候補となったが敗れ、政友会総裁は鈴木となった。従来の憲政の常道から見ればテロ・寿命による内閣後継は与党後継総裁(例:高橋内閣、第1次若槻内閣、第2次若槻内閣)となっていたが、西園寺公望は政情判断より、斎藤実が首相に推奏された。
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