政友本党時代
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在任中に死去した加藤友三郎を後継した第2次山本内閣が虎ノ門事件の責任を取って大正(1923年)12月27日に退陣すると政友会改造派は高橋を首相とする政友会内閣の擁立を狙ったが、高橋総裁では指名を受け得ないと考える床次ら非改造派は貴族院研究会の幹部清浦奎吾を推戴し政友会・研究会連合内閣を目論んだ。結果、大正13年(1924年)1月1日に清浦が大命降下を受けた。当てが外れた横田らは第2次護憲運動を開始したが、貴族院との繋がりが太く、協調によって政権を維持してきた床次らには受け入れがたかった。 大正13年(1924年)1月、清浦内閣が成立すると高橋総裁が憲政擁護の立場から清浦内閣打倒を唱えた。党分裂を避けたかった改造派は非改造派の説得工作を開始し、床次も党融和の見知から脱党論者の説得に当たったが、逆に非改造派の強い説得を受けた床次は清浦内閣支持に回った。1月15日に床次は決意して腹心・榊田清兵衛らと共に政友会を脱党した。結局、政友会からは過半数の136人の代議士が脱党、続いて月末までに13人が脱党した。政友会本体は129人となり、政友会の過半数以上が床次と行動を共にした。 脱党組は29日に政友本党を結成し、当初は総裁を置かずに床次、中橋、などの有力者5人を最高幹部の総務委員とする集団指導体制を取った。2月1日、臨時党大会で床次は政友会の本流が政友本党にあることを宣言した。第2次護憲運動の逆風を受けた5月の第15回衆議院議員総選挙では、与党の政友本党は149議席から112議席に議席を減らして衆院第2党となり、清浦内閣は退陣した。結果、6月11日に護憲三派の推す加藤高明内閣が発足し、政友本党は野党となった(ただし与党となった三派の内、政友会と革新倶楽部も選挙前より議席を減少)。 古巣の政友会も選挙で議席を減らして第3党となったため、政権の主導権を獲得するためにも党勢回復に努めた。大正14年(1925年)2月4日、政友会における床次の好敵手であった現職法相の横田千之助が死去し、4月13日には政友会の新総裁に田中義一を迎え、更に犬養の革新倶楽部を合併した。また、政友本党へ復帰工作を行って勢力を挽回しようとした。小川平吉は前田蓮山へ仲介を依頼して床次に復党を促した。政友本党では、横田の死と高橋総裁の引退を機会と捉えて復帰を推進する中橋達に対し、田中新総裁と革新倶楽部合併は政友会の変質であり合流後の主導権に疑問を持って合流を躊躇した床次達の意見は割れた。政友会では8月に連立内閣を解消して野党となっていたため、単独過半数を狙って更に政本合流工作を進めて政友本党に接近したが12月末に交渉は決裂した。この間、床次は政策本位による政府との協調で党勢を拡大し、政友本党優位の状態で政友会を吸収する大政友会構想を進めていた。しかし最終的に中橋徳五郎、鳩山一郎ら21人が政友本党を離脱して政友会に合流し、床次の政友本党は87議席に減退し、政友会への優位は失われていった。政友本党では党勢回復の10月から各地に党首を旗印とする後援組織「床次会」を設けて地域組織を固め、一般大衆への浸透と普通選挙への対応とした。 第1次加藤高明内閣の政権末期には、野党となった政友本党の床次総裁は二つの面より政権獲得の可能性を狙っていた、一つは憲政常道の実績により現政権が失政辞職して反対党(野党)の政友本党に大命降下する可能性、別の実績からも非政党内閣に移行した場合には野党である政友本党に提携・連立の打診が来る可能性があったことである。有馬学はこの床次の態度を、当初は小川の工作に応じて政友会復帰の意欲が濃厚であったが、結果的に常に鮮明でなかったのは、多数派工作をしなくても次期政権が自分に来るという主観的な予想から終始逃れられなかったからであると指摘している。更に、政友本党と政友会は提携を申し合わせて多数派を誇示し、西園寺に政権獲得の打診を行ったが野合と見られて政権獲得は出来なかった。この年の12月5日、飯野吉三郎の招待で、水野錬太郎・鈴木喜三郎・後藤新平・赤池濃・山梨半造・田中義一・大倉喜八郎らと、待合「宇佐美」を訪れている。水野・鈴木・後藤・赤池はいずれも内務官僚である。山梨や田中はとかく汚職の噂があった人物であり、大倉は政商である。 第2次加藤高明内閣で少数与党となった憲政会では、12月末から衆院の過半数確保のため政友本党との連携(憲本提携)をもくろんだ。第五十一議会前の12月8日、床次によれば若槻礼次郎内相が床次に「此議会さえ援けて呉るてば後は君のほうに行くべき様尽力を為すべし」と約束を得た。浜口雄幸蔵相が政策を譲らなかったため不成立のまま、大正15年(1926年)1月に加藤高明は病死して連立は不成立となった。引き続き第1次若槻内閣の憲政会内閣が政権を担ったが失政のために4月に退陣した。これに先立ち、選挙回避に動いた若槻総裁に不満を持つ憲政会幹部の安達謙蔵は独断で政友本党と交渉を進め、3月1日には憲本連盟が成立していた。安達は提携成立の暁には適当な時期に若槻は辞職し、床次へ禅譲する政権たらい回し構想を持ち、西園寺へも打診を行った。これを受け入れた床次の判断は政策本位・国家本位の行動であるとコメントされたが、野合であるとの批判を多々受けた。 憲政会の第1次若槻内閣の時期に、第51議会で床次は解散を恐れずに対決姿勢を取ることにより、政本合同論を抑えた。また政府との協調も模索して政策実現の譲歩を引き出そうとした。結果、政府は政友本党の申し入れを容れて税制整理案を修正し、憲政会と政友本党の賛成により可決された。また議会閉会後に若槻は連立を提起し床次に入閣を要請したが次期政権に向けて拘束を受けないためにも、連立を拒否して閣外協力を選択した。若槻内閣が倒れた場合には野党第一党の田中政友会が推奏される可能性が高かったが、一方で西園寺が協調外交政策で幣原外交を買っており、田中を忌避して外交政策を継続する床次政友本党を選択する可能性を床次は考慮していた。貴族院最大会派の研究会の支持を受けていた床次の政友本党は衆議院の議席以上の影響力を持っており、先の憲本提携運動に於いても研究会所属の近衛文麿が床次主導の新党を本気で考えていた。なお、この時期に問題となった松島遊郭疑獄では、証人として取調べを受けている。
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