政友本党時代とは? わかりやすく解説

政友本党時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:56 UTC 版)

床次竹二郎」の記事における「政友本党時代」の解説

在任中に死去した加藤友三郎後継した第2次山本内閣虎ノ門事件責任取って大正1923年12月27日退陣する政友会改造派は高橋首相とする政友会内閣擁立狙ったが、高橋総裁では指名を受け得ない考える床次ら非改造派は貴族院研究会幹部清浦奎吾推戴し政友会研究会連合内閣目論んだ結果大正13年1924年1月1日清浦大命降下受けた当て外れた横田らは第2次護憲運動開始したが、貴族院との繋がり太く協調によって政権維持してきた床次らには受け入れたかった大正13年1924年1月清浦内閣成立する高橋総裁憲政擁護立場から清浦内閣打倒唱えた党分裂避けたかった改造派は非改造派の説得工作開始し、床次も党融和見知から脱党論者説得当たったが、逆に改造派の強い説得受けた床次は清浦内閣支持回った1月15日に床次は決意して腹心榊田清兵衛と共に政友会脱党した結局政友会からは過半数136人の代議士が脱党続いて月末までに13人が脱党した政友会本体129人となり政友会過半数以上が床次と行動を共にした。 脱党組は29日政友本党結成し当初総裁置かずに床次、中橋、などの有力者5人を最高幹部総務委員とする集団指導体制取った2月1日臨時党大会で床次は政友会本流政友本党にあることを宣言した第2次護憲運動逆風受けた5月第15回衆議院議員総選挙では、与党政友本党149議席から112議席議席減らして衆院第2党となり、清浦内閣退陣した。結果6月11日護憲三派推す加藤高明内閣発足し政友本党野党となった(ただし与党となった三派の内、政友会革新倶楽部選挙前より議席減少)。 古巣政友会選挙議席減らして第3となったため、政権主導権獲得するためにも党勢回復努めた大正14年1925年2月4日政友会における床次の好敵手であった現職法相横田千之助死去し4月13日には政友会の新総裁田中義一迎え、更に犬養革新倶楽部合併したまた、政友本党復帰工作行って勢力挽回しようとした小川平吉前田蓮山仲介依頼して次に復党促した政友本党では、横田の死と高橋総裁引退機会捉えて復帰推進する中橋達に対し田中新総裁革新倶楽部合併政友会変質であり合流後主導権疑問持って合流躊躇した床次達の意見割れた政友会では8月連立内閣解消して野党となっていたため、単独過半数狙って更に政本合工作進めて政友本党接近した12月末に交渉決裂したこの間、床次は政策本位による政府との協調党勢拡大し政友本党優位の状態で政友会吸収する大政友会構想進めていた。しかし最終的に中橋徳五郎鳩山一郎21人が政友本党離脱して政友会合流し、床次の政友本党87議席減退し政友会への優位失われていった政友本党では党勢回復10月から各地党首旗印とする後援組織床次会」を設けて地域組織固め一般大衆への浸透普通選挙への対応とした。 第1次加藤高明内閣政権末期には、野党となった政友本党の床次総裁二つの面より政獲得可能性狙っていた、一つ憲政常道実績により現政権失政辞職して反対党(野党)の政友本党大命降下する可能性別の実績からも非政党内閣移行した場合には野党である政友本党提携連立打診が来る可能性があったことである。有馬学はこの床次の態度を、当初小川工作に応じて政友会復帰意欲濃厚であったが、結果的に常に鮮明でなかったのは、多数派工作をしなくても次期政権自分に来るという主観的な予想から終始逃れられなかったからであると指摘している。更に、政友本党政友会提携申し合わせて多数派誇示し西園寺政権獲得打診行った野合見られ政権獲得出来なかった。この年12月5日飯野吉三郎招待で、水野錬太郎鈴木喜三郎後藤新平赤池濃山梨半造田中義一大倉喜八郎らと、待合宇佐美」を訪れている。水野鈴木後藤赤池はいずれ内務官僚である。山梨田中はとかく汚職の噂があった人物であり、大倉政商である。 第2次加藤高明内閣少数与党となった憲政会では、12月末から衆院過半数確保のため政友本党との連携(憲本提携)をもくろんだ第五十一議会前の12月8日、床次によれば若槻礼次郎内相が床次に「此議会さえ援け呉るてば後は君のほうに行くべき様尽力為すべし」と約束得た浜口雄幸蔵相政策を譲らなかったため不成立のまま、大正15年1926年1月加藤高明病死し連立不成立となった引き続き第1次若槻内閣憲政会内閣政権担った失政のために4月退陣した。これに先立ち選挙回避動いた若槻総裁に不満を持つ憲政会幹部安達謙蔵独断政友本党交渉進め3月1日には憲本連盟成立していた。安達提携成立暁には適当な時期若槻辞職し、床次へ禅譲する政権たらい回し構想持ち西園寺へも打診行った。これを受け入れた次の判断政策本位国家本位行動であるとコメントされたが、野合であるとの批判多々受けた憲政会第1次若槻内閣時期に、第51議会で床次は解散恐れず対決姿勢を取ることにより、政本合同論を抑えた。また政府との協調模索して政策実現譲歩引き出そうとした。結果政府政友本党申し入れを容れて税制整理案を修正し憲政会政友本党賛成により可決された。また議会閉会後若槻連立提起し次に入閣要請した次期政権向けて拘束受けないためにも、連立拒否して閣外協力選択した若槻内閣倒れた場合には野党第一党田中政友会が推奏される可能性高かったが、一方で西園寺協調外交政策幣原外交買っており、田中忌避して外交政策継続する床次政友本党選択する可能性を床次は考慮していた。貴族院最大会派研究会支持受けていた床次の政友本党衆議院議席上の影響力持っており、先の憲本提携運動に於いて研究会所属近衛文麿が床次主導新党を本気で考えていた。なお、この時期問題となった松島遊郭疑獄では、証人として取調べ受けている。

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