床次会
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原内閣・高橋内閣の内務大臣を務めた床次竹二郎について上杉慎吉は高い評価を与えており、1925年(大正14年)1月15日、純正普選期成会のメンバーとして護憲三派と対立していた上杉慎吉は同じく護憲三派と対峙していた床次総裁へ政友本党がどうあるべきかを「政友本党論」の名で献策し、床次はこれを印刷・謄写してパンフレットとして配布している。この中で上杉は、政友本党を中心として政友会との合同をすべきこと、普通選挙法案への対応、新有権者の取り込むことなどを進言している。 これを受けてイギリスの政党などを研究した床次は、政友本党において地方組織の拡充としての代議士・党員を中心に構成される「地方支部」の他に、都市部の知識人・青年層をターゲットに開かれた会合であり総裁後援会の意味合いもある「床次会」の設立に動いた。このように政友会や憲政会に比して最も保守的と目されていた政友本党でも普通選挙の導入による環境変化に適応するための組織作りを行い、名望家政党から大衆政党へ変質を遂げていった。なお、床次会の拡張に影響されてか、憲政会においても若槻会という組織が1926年(大正14年)4月1日に若槻の地元である島根県人を中心に結成され、また若槻会は北陸でも組織された。床次会、若槻会については民政党への合同後も存続し、第1回普通選挙を戦う基盤を担った。 「大阪床次会」発足式、1925年(大正14年)10月25日、京阪神の有志学生2,000人規模(大阪各区の当選ラインは2~3,000票台) 「奈良床次会」発足式、1925年(大正14年)12月 「兵庫県床次会」1925年(大正14年)12月、発足 「奈良床次会」総会、1926年(大正15年)4月21日、1,500人規模、講演会は2,000人規模(奈良1区の前回当選ラインは785票) 「大阪床次会」第2回総会、1926年(大正15年)4月26日、4,000人規模。演説会は5,500人規模(演説会は実業同志会と提携した「政治更新連盟」と合同で開催) 「八幡床次会」発足式、1926年(大正15年)7月10日、福岡県にて町村有志の3,000人規模 「佐世保床次会」発足式、1926年(大正15年)7月12日、会員は3,500人規模、講演会は4,000人規模 「名古屋床次会」発足式、1926年(大正15年)10月3日、名古屋市にて13,000人規模(愛知1区の当選ラインは約4,300票) 「岐阜県床次会」発足式、1926年(大正15年)10月13日、5,000人規模 「岡山床次会」発足式、1926年(大正15年)10月26日、会員は3,000人規模(政友会へ合流した犬養毅の地盤の切り崩し) 「南信床次会」発足式、1926年(大正15年)11月1日、長野県辰野町にて1,500人規模 「愛知県床次会尾北支部」発足式、1926年(大正15年)11月11日、犬山町にて 「宮城県床次会」発足式、1926年(大正15年)11月23日、仙台市にて2,800人規模(宮城1区の当選ラインは約2,400票) 「東京床次会」
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