政友本党の活動
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1924年(大正13年)1月29日、政友本党が結成され、清浦内閣の与党となった。脱党者は政友会首脳の見通しを上回り高橋光威・杉田定一・鳩山一郎なども加わった。当初は総裁を置かず、総務5人(床次竹二郎、山本達雄、中橋徳五郎、元田肇、杉田定一)の集団指導体制とした。党の理念としては、協調と妥協によって中道を歩む憲法政治を実現し、「政界縦断の理想」を確立する模範的政党を目指すことを掲げ、政友会に代わって国家の中核を担おうとした。 1月31日、第48回帝国議会の解散時には政友本党は149議席であり、政友会129議席、憲政会103議席、革新倶楽部43議席と比して、衆議院の第一党であった。しかし、第二次護憲運動が盛り上がり、関東大震災による延期の末に5月10日に投票が行われた第15回衆議院議員総選挙の結果、憲政会152人、政友本党111人、政友会102人、革新倶楽部30人となった(なお、この総選挙は帝国議会における政府与党が敗北したほぼ唯一の例外となった)。 選挙の結果、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)連立による加藤高明内閣が6月に成立し、政友本党は野党となった。加藤内閣への対決姿勢を明確にするため、第49回帝国議会を前に床次を総裁に選出し、残りの総務4人は顧問へ退いた。床次は平生釟三郎の支援で政治資金を得ていたが、党としての政治資金調達能力としては弱かったため、政友本党の政治資金は主に山本・中橋の二人が調達を担当し、この3人が党の実質的幹部であった。第49回帝国議会、農村振興・義務教育費の国庫負担増額、水産助成・預金部資金運用委員会設置を4大建議案として提出した。 6月9日に「臨時政務調査会」が設置された当初は院外から前代議士や非代議士が加わっており、戦後政治で活躍した大野伴睦や益谷秀次なども名を連ねた。しかし、30日以前に正式に「政務調査会」として発足した時点では議員限定の組織に整理された。また、24日の代議士会では議案提出のルール作りが制定され、院内総務や政務調査会の審議を通した党の統制が図られた。当初は総裁を置かなかったが、選挙敗北・衆議院第二党への転落を契機に組織を改編することとなり、6月24日の臨時大会で党則を改正して総裁を設置した。総裁は総務の山本達雄が固辞したことにより、床次竹二郎が就くこととなった。 1924年(大正14年)、第50回帝国議会では加藤高明内閣により普通選挙案が提出されると、政友本党では25歳以上の戸主(世帯主)に選挙権を与える修正案を提出したが、否決された。これは戸主であれば女性でも選挙権を与えるという案であった。 改正前の有権者:約330万人(納税額制限あり) 護憲三派政府案:約1,415万人(25歳以上の男子へ無条件) 政友本党案:940万人(25歳以上の世帯主、女子も可) 政友会への復帰が図られたが政本合同運動は破綻し、復帰派による五月雨式脱党が起き、1925年(大正14年)12月29日には鳩山一郎や中橋徳五郎など22名が政友会へ合流した。1926年(大正15年)1月20日の党大会では顧問の川原茂輔などの引き締めもありなお、80人以上を擁してキャスティング・ボートを握る第三党路線を堅持した。 「政務委員会」と並ぶもう一つの委員会である「党務委員会」は大会・総会の開催、入党者情報、選挙対策と党勢に関して必要に応じて断片的・個別的に対応していた。しかし、1926年(大正15年)6月2日に高見之通委員長が辞任し、後任に原田左之治が配置されてからは党務新事業として、地方の政情調査、地方青年との連絡、宣伝の普及、支部の新設、政治教育運動、重要政策の研究などの目標と達成手段が7月に掲げられ、戦略的・系統的な党務運営が始まった。 8月、護憲三派の連立が崩れて憲政会単独内閣(いわゆる第2次加藤高明内閣)が成立した後は、政友本党が衆議院におけるキャスティングボートを握る展開となる。当初は政友会との合同の機運が高まり(政本合同問題)、田中政友会総裁と床次政友本党総裁の会談により提携の申合せ書が作成されたが、床次は合同には消極的であり、12月の第51帝国議会では衆議院の常任委員長ポストの割り振りをめぐって交渉が決裂した。こうした動きの中で12月29日、中橋徳五郎・鳩山一郎ほか合同促進派22名が脱党し、翌年2月にその多くが政友会に復党した。 普通選挙法により拡大した選挙権に対応するため、政友本党では都市部と地方で戦略を分けて地域組織を作り、票の掘り起こしと獲得に努めた。主に都市部では党首名に地域の名を関した「床次会」という党首後援会を発足させて大量動員し、国政を争点とした野党連携を利用した地域組織を構成した。また地方においては地元代議士を中心とした地盤固めや、新規地盤を開拓するために地方組織を立ち上げた。 その後、勢力が減退した政友本党は加藤高明首相が率いる与党憲政会との連携(憲本合同問題)と再度政友会との合同が平行して模索され、議会内での存在感を維持した。1926年(大正15年)12月21日、後藤新平の斡旋で政友会(元の幹部派)と政友本党の間に提携が成立したが、1927年(昭和2年)1月の三党首妥協以後は、急速に憲政会に接近していく。 1927年(昭和2年)2月25日には憲政会と政友本党の連合(いわゆる、憲本提携)が成立し政友会は孤立した。田中義一内閣成立後、政友会・憲政会による二大政党制の色彩が強まる中で、床次は第三党の党首としての限界を感じ、憲政会との合同に踏み切る。政友会側からの切り崩しもあって、杉田定一・元田肇・川原茂輔など30名の脱党者を出しながらも、1927年6月1日、両党は対等に合併し、旧憲政会幹部の濱口雄幸を総裁として立憲民政党が結成された(床次は若槻らとともに顧問に就任)。
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