政友会へ入党
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床次は代議士となることを念頭に大正2年(1913年)12月に政友会に入党した。同時期に入党した官僚は多く、水野錬太郎(前内相で浪人中)・橋本圭三郎農商務次官・犬塚勝太郎逓信次官・岡喜七郎警保局長・小山温司法次官などが挙げられる。大正3年(1914年)、山本内閣の総辞職を受けて鉄道院総裁を辞任。なお同年には山本権兵衛から貴族院の勅選議員になることを勧められた。当時勅選議員は終身制であり、一生涯を通じて政治家としての安定した地位が得られる為、当時の官僚にとって羨望の的であったが、政党政治に将来性を見出していた床次は原の勧めもあってこれを断った。地元の伊地知峻の誘いで郷里の鹿児島県から衆議院議員補欠選挙(長谷場純孝の急死による補選)に立候補し初当選する。以後、殆どお国入りすることなく昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期の当選をした。初当選の翌年(1915年3月)には第12回衆議院議員総選挙が行われ、立憲政友会は184議席から104議席に激減させる逆境であったが、床次は首位で当選を果たした。政友会では領袖クラスの大岡育造、奥繁三郎、伊藤大八、松田源治、粕谷義三などが落選し、当選した床次は元田肇、岡崎邦輔、村野常右衛門と共に政友会院内総務に就任した。5月、衆議院本会議で第2次大隈内閣の加藤高明外相に質問する形で初演説を行った。新聞に「無用な活気には乏しいが、荘重の弁は、外交質問としては、上品な所を見せた」と評された。 大正7年(1918年)9月に原内閣が成立すると内務大臣(兼鉄道院総裁)に就任したが、この人事は反発を恐れて直前まで秘密にされていた。1919年11月、博徒右翼団体である大日本国粋会の結成に世話役として関わる。内相としては長年の懸案であった郡制廃止、選挙法改正による選挙権拡張と与党に有利とされる小選挙区制の導入を実現した。また内務省内に社会局を新設して生活保護や失業救済を管轄させ、後に労働問題も取り扱うなど国民の権利や要望に対応する社会政策に取り組んだ。ストライキについても原則的に干渉しない姿勢をとった。他にも、同年12月に半官半民で協調会を設立して労働者対策とした。この姿勢は山縣有朋の不満を買うことになり、内田康哉外相・中橋徳五郎文相とともに山縣に非難され、のちには更迭まで求められるようになる。鉄道院総裁としては幹線改良を優先する改主建従政策から新線建設を優先する建主改従政策へ転換して政友会への支持を図った。また、この原内閣期には原より命じられて貴族院の最大会派であった研究会を初めとする貴族院勢力との関係を築き、研究会を山県閥から引き離し政友会に近づける工作を成功させた。 原内閣における床次の活躍はキャリア官僚から政治家への転身の流れを加速させ、それ以前のキャリア官僚出身議員の当選が一桁台だったのに対し、大正14年(1920年3月)の第14回衆議院議員総選挙では20人に増大、清浦内閣期の第15回衆議院議員総選挙で一時減退するものの、以後犬養内閣期まで40人前後の当選者が出ることとなった。これは明治初期の立身出世の早道がキャリア官僚にあったのに対し、政党内閣期にはこれが代議士へ変化したと認識されたためである。また、原内閣期の鹿児島は床次配下の議員で占められたため「床次王国」と呼ばれた。この時期、山縣閥は次第に力を失い、薩派が間を縫って力をつけていく。床次は鹿児島出身であり、松方正義と牧野伸顕が宮中に、山本権兵衛が海軍に、という図式である。また、宮中某重大事件に際しては、皇太子婚約変更反対の動きを行っている。これは、自身を引き立てた原の意図に反しているが、島津家の意向を受けたものであった。床次は治安維持の責任者でありながら、右翼が山縣暗殺を計画しているという話に対しても「山縣の身辺保障は難しい」と原に申し入れる有様であった。
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