政友会の分裂
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立憲政友会の第3代総裁であった原敬首相が1921年(大正10年)に暗殺されると、暫定的措置として高橋是清が第4代総裁となり内閣総理大臣を後継し、高橋・横田千之助らの総裁派(改造派、のちに非改革派)が党を主導した。だが、これに同党の実力者で原敬の後継者の一人と目されていた床次竹二郎・元田肇らの非総裁派(非改造派、のちに改革派)は不満を抱き対立は深まった。 1922年(大正11年)、高橋首相が内閣改造を計画すると、中橋徳五郎文部大臣・元田肇鉄道大臣・山本達雄農商務大臣が高橋の政権運営能力を批判して内閣総辞職を主張した。内務大臣であった床次は一応これを宥めるも6月6日に高橋内閣は倒れ、床次と並ぶ後継者候補とされていた横田千之助(内閣法制局長官→党総務委員)は報復として中橋・元田ら6名を反党行為を理由として除名した。 6名は12月8日に復党したものの、その後の加藤友三郎内閣、第2次山本内閣との関係や普通選挙問題を巡り、高橋総裁の下で普通選挙を実現しようとする横田ら「幹部派」と普通選挙よりも政権獲得を優先すべきであるとする床次ら「改革派」との対立が深まった。 1924年(大正13年)1月15日最高幹部会では、成立した清浦内閣について政党内各論から反対する高橋派と、政策本位から支持を主張する反高橋派による激論が交わされ、高橋総裁が不支持を決定した。これに反発した床次竹二郎・山本達雄・中橋徳五郎・元田肇らは、翌1月16日に脱党して新党倶楽部の名で結束を図った。
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政友会の分裂
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「原敬暗殺事件」も参照 大正10年(1921年)11月4日、原が暗殺され、後継首相には高橋是清蔵相が横滑りした(高橋内閣)。床次は内相に留任したが原の死後、高橋首相は前言を翻して中橋徳五郎文相を窮地に陥れるなど指導力が問題視され、政友会党内は首相留任のうえ内閣改造を狙う改造派と、首相のみ交代させて閣僚留任を目指す非改造派に分かれて内紛が激化した。当初、床次は総裁派と非総裁派の融和に努め、貴族院から攻撃を受けていた中橋については党内を一蓮托生主義として固め、また繋がりを持つ貴族院へ運動してことを納めて仲介した。 三土忠造内閣書記官長は高橋に引退を勧め、後任に床次を推薦した。高橋は床次は経済・財政に通じていないと難色を示したが渋々引退を一度は認めた。しかし、高橋を担ぐ改造派は横田千之助を中心に結集して高橋を翻意させ、以降主導権をめぐった対立が激化し、大正11年(1922年)6月に高橋内閣は退陣した。 退陣後も政友会では高橋総裁が続投したが内紛状態の政友会に政権は回って来なかった。首相として推奏を受けていた加藤友三郎が辞退した場合、憲政会の加藤高明総裁が組閣される情勢であり、政友会では局外中立で加藤友三郎を支えることで一致し、元老松方正義に床次を派遣して加藤友三郎内閣の成立を推進するとともに、加藤高明内閣の出現を阻止した。
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