政友会の分裂とは? わかりやすく解説

政友会の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:51 UTC 版)

政友本党」の記事における「政友会の分裂」の解説

立憲政友会第3総裁であった原敬首相1921年大正10年)に暗殺されると、暫定的措置として高橋是清が第4代総裁となり内閣総理大臣後継し、高橋横田千之助らの総裁派(改造派、のちに非改革派)が党を主導した。だが、これに同党の実力者原敬後継者一人目されていた床次竹二郎元田肇らの非総裁派(非改造派、のちに改革派)は不満を抱き対立深まった1922年大正11年)、高橋首相内閣改造計画すると、中橋徳五郎文部大臣元田肇鉄道大臣山本達雄農商務大臣高橋政権運営能力批判して内閣総辞職主張した内務大臣であった床次は一応これを宥める6月6日高橋内閣倒れ、床次と並ぶ後継者候補とされていた横田千之助内閣法制局長官→党総務委員)は報復として中橋元田ら6名を反党行為理由として除名した。 6名は12月8日復党したものの、その後加藤友三郎内閣第2次山本内閣との関係や普通選挙問題巡り高橋総裁の下で普通選挙実現しようとする横田ら「幹部派」と普通選挙よりも政権獲得優先すべきであるとする床次ら「改革派」との対立深まった1924年大正13年1月15日最高幹部会では、成立した清浦内閣について政党各論から反対する高橋派と、政策本位から支持主張する反高派による激論交わされ高橋総裁不支持決定した。これに反発した床次竹二郎山本達雄中橋徳五郎元田肇らは、翌1月16日脱党して新党倶楽部の名で結束図った

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政友会の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:56 UTC 版)

床次竹二郎」の記事における「政友会の分裂」の解説

原敬暗殺事件」も参照 大正10年1921年11月4日、原が暗殺され後継首相に高橋是清蔵相横滑りした(高橋内閣)。床次は内相留任したが原の死後高橋首相前言翻して中橋徳五郎文相窮地陥れるなど指導力問題視され政友会党内首相留任のうえ内閣改造を狙う改造派と、首相のみ交代させて閣僚留任目指す改造派に分かれて内紛激化した当初、床次は総裁派と非総裁派の融和努め貴族院から攻撃受けていた中橋については党内一蓮托生主義として固め、また繋がりを持つ貴族院運動してことを納めて仲介した。 三土忠造内閣書記官長高橋引退勧め後任に床次を推薦した高橋は床次は経済・財政通じていないと難色示した渋々引退一度認めた。しかし、高橋を担ぐ改造派は横田千之助中心に結集して高橋翻意させ、以降主導権めぐった対立激化し大正11年1922年6月高橋内閣退陣した。 退陣後政友会では高橋総裁続投したが内紛状態の政友会政権回って来なかった。首相として推奏を受けていた加藤友三郎辞退した場合憲政会加藤高明総裁組閣される情勢であり、政友会では局外中立加藤友三郎支えることで一致し元老松方正義に床次を派遣して加藤友三郎内閣成立推進するとともに加藤高明内閣出現阻止した

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