かとう‐ともさぶろう〔‐ともサブラウ〕【加藤友三郎】
加藤友三郎 かとう ともさぶろう
広島生まれ。海軍軍人、政治家。父は広島藩士。明治6年(1873)海軍兵学寮に入学。16年(1883)海軍少尉に任官。日清戦争では巡洋艦「吉野」の砲術長をつとめ、日露戦争では連合艦隊参謀長として東郷平八郎を補佐。第2次大隈内閣、寺内内閣、原内閣、高橋内閣の海相をつとめる。大正10年(1921)ワシントン会議に首席全権委員として出席。11年(1922)高橋内閣退陣の後を受けて、首相兼海相に就任。シベリア撤兵、海軍軍縮条約を履行した。
キーワード | 海軍軍人, 政治家, 首相 |
---|
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
加藤友三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 07:27 UTC 版)
加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日〈文久元年2月22日〉- 1923年〈大正12年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。最終階級は没後元帥海軍大将。
注釈
出典
- ^ “レファレンス事例:小林躋造氏が加藤友三郎氏の甥であるという記述を見かけ…”. 国立国会図書館 (2014年9月4日). 2023年3月20日閲覧。
- ^ 修道校同窓會「山田養吉先生門弟名簿」明治44年
- ^ a b c “78年前の除幕式 映像現存”. 中国新聞. (2013年11月28日) 2013年11月28日閲覧。
- ^ 『官報』第2982号「叙任及辞令」1893年6月9日。
- ^ 『官報』第4907号「叙任及辞令」1899年11月8日。
- ^ 『官報』第5091号「叙任及辞令」1900年6月23日。
- ^ 『官報』第5100号「叙任及辞令」1900年7月4日。
- ^ 『官報』第5157号「叙任及辞令」1900年9月8日。
- ^ 『官報』第5280号「叙任及辞令」1901年2月12日。
- ^ 『官報』第5289号「叙任及辞令」1901年2月22日。
- ^ 『官報』第6109号「叙任及辞令」1903年11月11日。
- ^ 『官報』第7175号「叙任及辞令」1907年6月1日。
- ^ 『官報』第7381号「叙任及辞令」1908年2月6日。
- ^ 『官報』第7933号「叙任及辞令」1909年12月2日。
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日
- ^ 『官報』第3535号「叙任及辞令」1895年4月16日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第4904号「叙任及辞令」1899年11月4日。
- ^ 『官報』第6384号「叙任及辞令」1904年10月8日。
- ^ 『官報』第7425号「叙任及辞令」1908年3月31日。
- ^ 『官報』第8055号「叙任及辞令」1910年5月2日。
- ^ 『官報』第233号「叙任及辞令」1913年5月12日。
- ^ 『官報』第1140号「叙任及辞令」1916年5月22日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ a b 『官報』号外「授爵、叙任及辞令」1923年8月25日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第8017号「叙任及辞令」1910年3月17日。
- ^ 『官報』第8064号「叙任及辞令」1910年5月12日。
- ^ 『官報』第1037号「叙任及辞令」1916年1月19日。
- ^ 『官報』第1905号「叙任及辞令」1918年12月9日。
- 1 加藤友三郎とは
- 2 加藤友三郎の概要
- 3 栄典
- 4 伝記
固有名詞の分類
- 加藤友三郎のページへのリンク