連合艦隊参謀長
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1943年(昭和18年)5月23日、連合艦隊参謀長。海軍甲事件に伴い連合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将に要請された人事だった。古賀長官は開戦以来横須賀にいて実戦をほとんど知らなかったこともあり、海大恩賜のエリートで戦略戦術の神様と評価が高かった福留に頼り切っていたが、刻々と変化し、劣勢の戦局に対応できる能力が福留には欠けており、いつまでも古い戦艦至上主義の考えから抜けきれなかった。 1943年11月以降に実施されたギルバート諸島沖航空戦やブーゲンビル島沖航空戦において連合艦隊は大戦果を報告したが、これらは戦果誤認であった。当時の軍令部第一部長中澤佑少将によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が福留参謀長名で打電(この件で福留自身にいかなる思惑があったのか未だに公表されていない)され、けっきょく反論なくうやむやになり、1944年10月に福留が第二航空艦隊長官として実施した台湾沖航空戦でも誤認戦果をそのまま報じることになったという。 詳細は「海軍乙事件」を参照 1944年(昭和19年)3月31日、海軍乙事件発生。連合艦隊は内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受け、福留ら司令部要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官・古賀峯一の乗機は行方不明となり、福留の乗った二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収されたと自供しているが、その件に関する米軍側の報告書が未だ公表されておらず、全てを承知でゲリラ側に譲渡したのではないかと疑う向きもある)。 日本はゲリラと交渉して福留を解放させ、帰還した福留は海軍次官・沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることになるが、本人が徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。当時の日本では敵の捕虜となることをこの上ない恥としており、福留がゲリラに捕縛されたことを敵の捕虜になったとみなすかどうかが問題となったが、戦時は捕虜にならなかったという見地で不問になった。戦後も福留は、GHQで戦史編纂の仕事をしていた大井篤のところに出向き、「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ」と述べたが、大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい」と追い返したと言う。
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