台湾沖航空戦
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台湾沖航空戦 | |
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![]() アメリカ空母に魚雷を投射した後、超低空で避退する艦上攻撃機天山。1944年10月14日、空母エセックス(CV-9)艦上より撮影 |
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戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1944年10月12日 - 10月16日 | |
場所:台湾東方海域 | |
結果:アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
寺岡謹平中将 福留繁中将 |
マーク・ミッチャー中将 |
戦力 | |
航空機 1,251機 | 航空母艦 17隻 戦艦 6隻 重巡洋艦 4隻 軽巡洋艦 10隻 駆逐艦 58隻 |
損害 | |
航空機 312機 | 重巡洋艦 2隻大破 航空機 89機 |
台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中、フィリピンのレイテ島への上陸作戦の布石として、台湾から沖縄にかけての日本軍航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊に対し、日本軍の基地航空部隊が迎撃したことで発生した航空戦。アメリカ軍の損害は軽微なものであったが、日本軍は大戦果と誤認した。
経過
背景
マリアナ沖海戦で大敗し、その後マリアナ諸島を失陥した日本軍は、早急に新たな防衛体制の構築をする必要に迫られた。捷号作戦と名づけられ新たな防衛計画は8月頃に立案されたが、日本海軍の主力として期待されたのは第六基地航空部隊(第二航空艦隊を基幹とする部隊)とし、主に敵空母部隊を目標とすると定められていた[注釈 1]。そして第六基地航空部隊の中でも「T攻撃部隊」と称する部隊がその中核であった。こちらが陸上基地である利点を生かし、敵(機動部隊)が活動しにくい夜間、および荒天時の攻撃が考えられていた[1]。
1944年7月23日の図上演習において軍令部は、荒天時の昼間攻撃を本旨、その機会がない場合は夜間攻撃するという案を出してきたが[2]、現場の指揮権を持つ第二航空艦隊からは、T攻撃部隊による夜間攻撃を中核とし、昼間攻撃、薄暮攻撃の三者を各部隊に振り分け、その組み合わせによって第1から第4までの作戦を定め、状況に応じてそのいずれかを適用する戦法が示され、意見が割れた。しかし、1944年9月上旬、第2航空艦隊司令長官福留繁中将が、T攻撃部隊は決戦一撃の夜間攻撃に使用し、悪天候に乗じるのは最後の切り札とすると表明すると、連合艦隊司令長官豊田副武は部隊用法については第二航空艦隊司令長官たる福留に一任することを決定した。豊田は福留に、攻撃不可能と思える時は無理をすることはないと指示した[3]。
こうして台湾沖航空戦では軍令部案ではなく、二航艦が図上演習で示した戦法が実施されることとなった。実際の戦闘過程は、作戦指導、報告戦果、損害など二航艦の図上演習と類似した内容となっている。異なる点は、図上演習では索敵線の最先端(600海里)で敵機動部隊を捕捉し、そののち敵の動きを待つ態勢だったが、実際では哨戒を強化していたにもかかわらず、米機動部隊の奇襲空襲を受けて、その後も容易にその所在を突き止められなかった点、そして戦果そのものは誤認であったことであった[4]。
マリアナ諸島の占領に成功したアメリカ軍は、次の攻略目標をフィリピン奪還に定め、レイテ島を最初の上陸地点とするキングII作戦を計画していた。同作戦は上陸作戦に先立って制空権・制海権を確保するため、空母機動部隊により、沖縄・台湾・フィリピン北部にかけて点在していた日本軍の航空基地を空爆することが定められていた。10月5日に第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツから「台湾の軍事施設と港湾施設へ恒久的損傷を与えよ」という命令を受けた[5]。
1944年10月11日、軍令部情報部は連合艦隊に対し、敵戦力についての情報を知らせた。9月にフィリピンに来襲したのは第三艦隊所属の38TFであるとして、同TFは正規空母2隻、巡洋艦改造空母2隻を中心とする空母群4群をもって編制されていること、空母総数は正規空母8隻、巡洋艦改造空母8-10隻が米海軍の全力であること、38TFと58TFは実質同一部隊であり、所属艦隊に応じて部隊番号が変更されること、この部隊の背後に人員機材補充用の護衛空母が2-3隻随伴していることなどの情報である[6]。
航空戦まで
捷一号作戦の準備が進められていく中で、連合艦隊は比島来攻以前の米艦隊を、その前進根拠地で捕捉撃破しようとする企図も持っていた。航空部隊による攻撃を「丹作戦」潜水艦部隊による攻撃を「玄作戦」と呼称したそれらの作戦は、捷号作戦の準備と並行して進められていた[7]が、9月末になり通信傍受により比島方面に行動していた米機動部隊が28日頃にサイパン方面に集結していたらしいという情報を得る。10月1日、連合艦隊は所轄の第七吉航空部隊に丹作戦発動を命じ、3日にまず彩雲5機が硫黄島に進出、4日に直前偵察のためサイパンに向かい、1機が上空に到着するも米機動部隊を見つけられず、偵察情報を報告[注釈 2]して1140に帰投した[8]。
これらの報告を受け、連合艦隊は4日2203時に攻撃取りやめを指令したが、姿を消した米機動部隊はどこに向かったのかが問題となった。また同時期にパラオ守備隊により視認されていた米空母部隊[注釈 3]が4日には姿を消し、同日の無線傍受で敵はウルシー方面に大部隊の集結を終えたらしい事も判明した[9]。また9月29日30日、10月7日に相次いで沖縄に敵偵察機が来襲しており、これらの動きは米機動部隊の活動開始を示唆しており、連合艦隊も10月3日に南西方面艦隊参謀長宛ての電文で比島、台湾方面での敵機動部隊襲来に対する警戒の要ありと告げている[10]。
だがその緊急度合については連合艦隊と南西方面艦隊とでは温度差があり、連合艦隊ではこれらの機動部隊の行動は単なる「機動空襲」であると考えていた。そのため2日より行われていた豊田長官の比島方面視察はそのまま実施されている[注釈 4]。
一方で南西方面艦隊では大部隊による侵攻と考え、セレベスもしくは比島南部への攻略作戦を開始したとみて、機動部隊の動きはこれに関連するものであると考えていた[11]
10月4日より、鹿屋、沖縄、台湾、硫黄島の各部隊は連合艦隊の情勢判断により飛行警戒を強化したが敵機動部隊発見の報もなく、来襲もない状況が続いた。10月7日、ウルシー泊地偵察に成功した呂46潜水艦より同泊地が米海軍の艦隊泊地として利用されている事が判明、空母1隻、軽巡2隻、艦種不明4隻、駆逐艦10隻、輸送船13隻の在泊が確認されたが米機動部隊の行方は杳として分からなかった[12]。
10月9日、南鳥島が突如米水上部隊(戦艦1隻、甲巡2隻、駆逐艦8隻)の艦砲射撃を受ける。また鹿屋基地から飛び立った哨戒機が0845時に都井岬140度450浬付近で消息を絶ち、帰投予定時間になっても戻らなかったことから、「翌10日黎明敵機動部隊来襲の算あり」と判断し、所轄の第6基地航空部隊の南九州所在部隊では9日夜より厳戒態勢がとられた[13]
10月10日「十.十空襲」
1944年10月10日、アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。このときの空襲は沖縄本島では十・十空襲として記録されている。 連合艦隊司令部には0830時に現地部隊が0700時に発した「0640敵艦上機沖縄に来襲」の報が届き、連合艦隊司令部は長官不在のなかで「基地航空部隊捷二号作戦警戒」を発令する。当時台湾の新竹にいた豊田長官も1204時に「連合艦隊電令作特5号」を下令し、台湾、南西諸島方面の作戦である「捷二号」だけでなく、フィリピン方面の敵来襲に対応する「捷一号」も作戦警戒を発令する[14]。
作戦発動に備え、連合艦隊は本土各地の航空部隊の集結[注釈 5][注釈 6]を指示、早朝から出撃している各偵察機からの敵発見の報を待つが発見の報はなく、だが索敵に出た銀河陸上爆撃機の1機が「ヒ連送」(敵飛行機発見を意味する略号)を発して消息を絶った事から敵機動部隊が遊弋しているのは間違いないと思われた[15]。
最初に敵機動部隊を見つけたのはQ37索敵線を飛んでいた艦上偵察機で1520時に都井岬187度400浬に南進中の大型空母2隻、巡洋艦及び駆逐艦約10隻からなる空母群を発見、次いでQ39番線を索敵していた艦上偵察機からも1533時に都井岬195度357浬で別の空母群を発見する。T攻撃部隊は夜間攻撃を企図してより正確な位置を得るために索敵隊を出すがこれら敵空母群の捕捉に失敗、結局この日の攻撃は出来なかった[16]。
この日行われた沖縄本島への空襲は4次にわたって実施され、飛行場・艦船・港湾施設・那覇市街に攻撃が加えられた沖縄に配備されていた唯一の戦闘機隊である西第四空襲部隊独立飛行第23中隊(陸軍航空隊)は三式戦闘機10機で迎撃に当たるが圧倒的な数の差の前に全滅に近い損害を受け、駐留していた海軍航空部隊「西第二空襲部隊」も上空で銀河3機、艦偵1機が未帰還、艦偵1機が自爆、地上で銀河10機、艦偵2機炎上、艦偵2機大破という損害を受け、沖縄方面の哨戒兵力はほぼ失われた。船舶も潜水母艦迅鯨ほか22隻を失った[17]。
10月11日 台湾来襲
10月11日未明、台湾東方海面を偵察していた901空及び801空の飛行艇がそれぞれ米機動部隊の1個群を電探で捕捉した。昼には新竹から発進した索敵機が1105時及び1331時に空母3隻を中心とする一群と兵力不詳のもう1群を発見するなど、ようやく米機動部隊の全貌がおよそ4個空母群である事が判明、11日1420頃よりルソン島北西のエンガノ及びアパリ方面を空襲するが大きな被害はなかった[18]。
福留第六基地航空部隊指揮官はこれらの敵に対してT攻撃部隊による攻撃を企図したが南九州の各基地からでは600浬を超える事から台湾もしくは沖縄を中継する必要があった。そのため1141時に6FGB電令作第34号でT攻撃部隊の台湾もしくは沖縄への急速移動準備を指示、1302時には沖縄方面及び石垣島泊地にT攻撃部隊偵察隊の二式大艇の補給施設の急設を指示した。
その後の偵察情報から12日の台湾への米機動部隊による空襲は確実と判断されるようになり、相手の目標となっている台湾への集結は危険を伴うと判断されるようになり、福留長官は翌12日0135時にT攻撃部隊の進出地を沖縄方面とし、戦機をとらえて攻撃を決行すべしと下令、T攻撃部隊による米機動部隊攻撃を明確にした[19]
10月12日
10月12日0340時、台湾全島に空襲警報が発令され、0648時以降上空に低い雲が垂れ込める中、アメリカ軍の第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。これに対して第6基地航空部隊は西第3空襲部隊及び西第4空襲部隊の約120機に及ぶ陸海軍戦闘機を迎撃に向かわせ撃墜約50機を報じるが、此方も約80機を失った。連合艦隊は1025時に「基地航空部隊捷1号及び捷2号作戦」を発動、以後25日までの間水上部隊の戦いも含む大規模な戦闘が台湾沖、比島沖で繰り広げられることになる[20]。
一方、T攻撃部隊は沖縄を中継とする米機動部隊攻撃の手配を終えていたが、この日も沖縄に0900時頃に空襲警報が発令され、沖縄に駐留する西第二空襲部隊の状況も不明であった事から、結局T攻撃部隊は沖縄中継をやめて鹿屋から直接攻撃を行い、そのまま台湾に帰投する事になった。 1030時、第一段索敵隊4機が、次いで1400時に第二段索敵隊3機が台湾東方の米機動部隊を求めて鹿屋基地を発進、一方攻撃隊は1300時に攻撃703飛行隊の一式陸攻18機、攻撃501飛行隊の銀河22機が宮崎基地から、1330時に攻撃708飛行隊の一式陸攻15機が鹿屋基地から出撃して南下した。天候は台湾東方海面を台風が北上していて荒天であり、まさに「期待通り」の天候であった。同部隊が沖縄西方に達すると第一段索敵隊の1機から敵発見の1報が届く[21]。この時点では空母の所在が不明であったが1720時になって漸く空母を含む敵部隊発見の報が届き、興那國島付近上空で旋回待機していた攻撃隊は予想戦場に針路をとった。
1830時に目的地上空に到達した攻撃708飛行隊は1855時に敵機動部隊を発見し攻撃に移る。隊長機ほか7機は攻撃のための散会後消息を絶ったが他の陸攻のうち1機が1947時に地点「へチ4チ」で敵空母らしい目標を発見し雷撃、命中させたと報告した。また他の生還機も帰還途上で艦種不明の轟沈2隻及び火柱の目撃を報じているく[22]。
攻撃708飛行隊から遅れて20分後の1840時に攻撃501飛行隊の銀河22機も予定地点に到着、直ちに索敵攻撃隊形をとるが、攻撃708と異なり同部隊は敵空母を発見する事が出来ず1930時には攻撃を断念して戦場を離脱、2030時から2250時にかけて台南および高雄の各基地に帰投するも1機が東港付近で不時着水(乗員は無事)、基地に降りた15機のうち6機が着陸時に不時着大破(こちらも乗員は無事)となった。残りの6機は未帰還となった。一方攻撃703飛行隊の一式陸攻18機については資料がなく詳細は不明だが、10月13日発電の「鹿屋基地機密第130530電」で報じているものとして「攻703は1920~2020攻撃 効果不明」とある[23]。
また陸軍爆撃機飛龍や艦上攻撃機天山による、沖縄を中継した夜間攻撃も行われた。陸軍の飛行第98戦隊の飛龍21機と攻撃262飛行隊の天山23機が1600時から1630時にかけて沖縄小禄基地に到着、燃料補給のうえ1900時より偵察隊を発進させ出撃の機会を伺っていた。
2115時、偵察を行っていた天山が「二チ4エ」に敵大部隊発見を報告、更に触接を続けた。これとは別の天山も2123時に「ヘヤ2チ」に敵大部隊発見を報告する。攻撃262飛行隊は2015時に出撃「ニ地4エ」の敵大部隊に向かい2224時頃に大型空母に対して雷撃をしかけたが戦果は不明だった。一方の飛行第98戦隊は1900時に先発隊(偵察及び照明を担当)が離陸、次いで2030時に本隊12機が出撃して南下する。2150時に先発隊の1機が「ニト5ト」で敵部隊発見を報じ本隊も目標地点に到達するも、照明弾を担当する隊との連携がうまく取れず暗夜のなかでの無照明攻撃となったので攻撃は不成功に終わった [24]。
攻撃後、各基地に帰還した出撃搭乗員の戦果報告は逐次高雄の第六基地航空部隊の司令部に集められた。福留は13日0115時に次の通り戦果を速報する
・6FGB戦果速報(10月12日夜間攻撃)其の2
- 13日0100までに判明せる総合戦果
- 撃沈2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり
- 中破2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり
- 帰投機数(新竹、台中、台南、高雄)
- 攻撃501 13機(?を含む) 攻撃703 7機(?を含む) 攻撃708 4機 T11 1機(中村大尉)
- 他に陸軍飛行場に不時着せるもの若干ある見込み
この速報は鹿屋を経由して大本営にあげられ、他の各部隊も知らされた。久しぶりの撃沈戦果の報に軍内は沸き立つが、一方で損害の多さに不安視する者もおり、遠くルンガ泊地にいる宇垣第一戦隊司令官は自身の日誌「戦藻禄」にて損害に対して戦果が少ない事に「意外」と感じたことを書いている[25]
実際の米軍のこの日の損害はなかった。攻撃は第34.2任務群に対して行われたが、その大部分は軽空母カボットから飛び立った迎撃機や対空砲で撃墜された[26]。ただ乗員達はこの攻撃の激しさで翌日の攻撃のための十分な睡眠が取れなかったと証言している。カール・ソルバーグはこの夜の一式陸上攻撃機による攻撃について、組織的な空襲と言うよりは調整の取れない散発的なものであるというレーダー観測員の感想を残している[27]。
10月13日
この日もアメリカ艦隊は延べ947機で台湾を空襲した。主に台湾南部が攻撃されたが一部は台湾北部も空襲、これに対して陸海軍制空隊も反撃に出るが前12日の戦闘で戦力の大部分を失っていたので大きな戦果を挙げることは出来なかった[28]。
T攻撃部隊は前夜に続いて台湾東方海面を台風が北上しており、引き続き荒天攻撃を企図していた。 まず彗星偵察機が13日0710時及び0713時に空母2隻からなる敵部隊の2群を発見し触接を続けた。また台湾から飛び立った索敵機も0745以降空母を含む敵部隊2個群をそれぞれ発見した[29]。
これらの報告を受けたT攻撃部隊は彗星2機、彩雲1機、銀河1機からなる第二段索敵を発進、更に彩雲1機1145時から随時出撃させると共に下記編成による攻撃隊を1330時より鹿屋方面から出撃させた。
飛行隊 | 機種 | 指揮官 | 役割 | 機数(武装) | 備考 |
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攻撃708飛行隊 | 一式陸上攻撃機 | 長井彊大尉 | 攻撃 | 12機(雷装) | うち2機が引き返す |
直協 | 7機 | うち1機が引き返す | |||
攻撃703飛行隊 | 岡庭芳太郎少尉 | 攻撃 | 8機(雷装) | ||
攻撃501飛行隊 | 陸上爆「銀河」 | 加藤正雄中尉 | 攻撃 | 3機(雷装) | |
3機(爆装) | うち2機が引き返す | ||||
戦闘303飛行隊 | 零式艦上戦闘機 | 不明 | 直掩 | 12機 |
薄暮を待ちながら宮古島上空を大きく旋回した攻撃隊は1620時より相次いで偵察に出た彗星艦爆より空母を含む大部隊の報告が届いた[注釈 7]。更に別の索敵線を飛ぶ銀河からも敵発見の報が届き[注釈 8]、攻撃隊は直協隊を先頭に現地に急行した[31]。
1910時、直協隊の1機が石垣島229度140浬に「正規空母4、小型空母3、戦艦3」を中核とする大部隊を発見し手報告、別の1機も別の地点で相次ぐ敵発見を報告、1850時には地点「へチ4テ」で敵大型空母1隻の轟沈を目視したと報じてきた。
こうした敵に対するT攻撃部隊の攻撃は夕闇迫る頃に実施された。その戦闘状況は未帰還機多数のため詳細は不明だが、帰還した機による報告では[32]
- 攻撃708の陸攻4機は1831時にめざす敵(大型空母2、巡洋艦及び駆逐艦10)を発見し攻撃を仕掛けるも1機を残して全滅。残った1機は石垣島に不時着した。同島分遣隊が該当機からの情報として「1834に同機は空母2番艦、僚機は1番艦をそれぞれ攻撃し魚雷命中2隻とも炎上撃沈、駆逐艦1隻撃沈を認む。我が方損害1機火災自爆を認るのみ」と報告。
- 別の陸攻1機は1905時に地点「ヘト3ク」で甲巡と推定される1隻を雷撃し、効果は確認できなかったが攻撃直前に左方に4本、右方に3本の火柱を確認し、空母らしいのが1隻轟沈するのを目視したと報告。
- 攻撃703の陸攻3機は石垣島226度155浬で敵部隊を捕捉、1855時にまず1機が戦艦と思われる目標を雷撃し火柱が立つのを確認する。また同機は攻撃前の1700時過ぎに4カ所が炎上している空母を目視したとも報告している。残りの2機のうち1機は護衛の巡洋艦を攻撃して魚雷が命中して敵艦は轟沈したように見えたと報告、残りの1機は発射装置の故障で雷撃できなかった。
- 攻撃501の銀河4機は1845時に友軍の照明弾により敵部隊を発見、爆撃(1機)と雷撃(3機)に分離してそれぞれ攻撃を行う。爆撃をした銀河は「エセックス型大型空母」と思われる敵に降下爆撃をしかけ「やや艦首気味に命中、船体折れ轟沈」と報告。雷撃をした3機は未帰還となった。
この日の攻撃で攻撃隊は一式陸攻、銀河計28機のうち18機が未帰還となり、偵察隊も彗星1機、銀河2機が未帰還となった。
米側の記録では13日の夜間攻撃は第38.1任務部隊の重巡洋艦キャンベラにまず攻撃が行われた。日没後に「雷爆撃機8機」が襲来、対空砲火で6機を撃ち落とすが1機が雷撃に成功して1835時に被雷、缶室区画に大破孔を生じて乗員23名が死亡、4500tもの浸水が起こり後部缶室と機関室を満水にしてキャンベラは航行能力を喪失した[33][34]。その後重巡洋艦ウイチタに曳航され戦線を離脱している。
その少し前、第38.4任務群の空母フランクリンも「ベッティ」(一式陸攻の米側コードネーム)4機に襲われていた。間近に迫るまで気づかれなかった4機はまっすぐフランクリンのみに進撃し、たまたま着艦待ちしていた戦闘機がこれを見つけて迎撃、対空砲火もこの動きで気づいて反撃を浴びせ1番機を共同で撃墜、2番機も直掩機に撃墜されるも続く3番機は魚雷を投下してフランクリンの艦首すれすれを通り抜けようとしたが撃墜され魚雷も躱す事に成功する。残る4番機は魚雷投下後に被弾炎上し、そのまま飛行甲板に激突し損害を与えている(魚雷は回避された)[35]
T攻撃部隊の生存機は14日未明には鹿屋基地に帰還した。これら生還者の報告を基に14日1026時に「T攻撃部隊戦闘速報」が報じられた。
・T攻撃部隊戦闘速報(10月14日1026発電)
- 13日夜間攻撃
- 鹿屋に帰着した搭乗員(2機)の報告によれば、攻撃隊(陸攻22機、銀河2)は薄暮事の好機雨内に出入りする敵空母群(正規空母4隻其の外4隻計8隻)に対し、目標を確認しつつ極めて有効攻撃を実施せるものの如し 効果確実と予想される帰還機の目視する戦果轟沈2(うち1隻は軽巡もしくは嚮導駆逐艦)
其の1時間後には台湾方面に帰還していた生還機が鹿屋に戻り、その報告も含めた続報を1320時に報告している[36]
・T攻撃部隊戦闘速報(13日夜間攻撃)其の2
- 機関搭乗員報告により判明する戦果追加下記の如し
- 1830時及び1910時航空母艦4隻含む1群内にて魚雷命中火炎7確認するが雨となり戦果確認し得ず
- 1834空母2隻含む1群の大型空母に対し発射命中確認後、大型正規空母1隻(瑞鶴型の約1倍半)炎上傾斜 航空母艦(艦橋の有無不明)1隻大傾斜 いずれも沈没しつつあるを確認す
一方、第1報が報じられた直後の1046時に、夜間攻撃についての総合報告がなされたが、その中では「南九州地区帰還セル搭乗員全員に未だ調査するを得ざるも」という前置きを入れつつ
- 轟沈又は撃沈4隻(航空母艦の算多し)
- 炎上確認10隻(艦種不明)
- 魚雷命中確認3(上記1,2を含まず)
- 第二次攻撃攻撃セリと認るも 未帰還のため不明なるも攻撃機以外に於いて2隻と緯度の炎上みとめたるものあり
と報じている。
この時点で実際に米軍が被った被害と、日本側が判断した戦果の内容に大きな乖離が起こっていた。だが14日の米軍の空襲が弱体化したこと[注釈 9]、敵艦隊が避退していくのが確認された[注釈 10]事から「米軍は大損害を受けて撤退している」と誤解され、12、3日の誇大戦果が信じられる一因となってしまった[37]。
10月14日
10月14日、第3艦隊は転送されたウルトラ情報により日本軍機が集結しつつあることを知った。また、前日被害を受けたキャンベラの退避を掩護すると決めたため、台湾に3群と北部ルソンに1群を差し向けて早朝より攻撃を行った。前日より更に早く空襲を切り上げたため出撃機は146機に減少し、喪失機の増加から日本軍の抵抗が強化されつつあると判断した。日本側は敵艦隊は前日までの攻撃によって防御力を喪失したと判断して380機による航空総攻撃を敢行し、昼間にも攻撃を行った。この攻撃では軽巡洋艦ヒューストンに魚雷2発が命中して損傷、空母ハンコックが急降下爆撃による至近弾3発(うち1発は不発)の攻撃を受けたが、損傷は軽微だった。
日本側の攻撃は15時から18時にかけての昼~夕前に行われ、敵艦隊からは上空を守る艦載機による激烈な迎撃と対空射撃をうけ、244機が未帰還となった[38]。この日を以って第3艦隊は台湾への攻撃を打ち切った。
作戦を予定通り終えた第3艦隊は、17日頃にはレイテ島近海に集結しつつあった第7艦隊のレイテ島上陸を支援するために、14日夜にはフィリピン東方沖に南下し始めた。ここで艦隊は二手に分かれ、第4群は15日よりマニラ周辺の空襲を開始し、第2群と第3群は燃料補給の為に給油海域に後退しつつあった。第1群は台湾東方沖に踏みとどまった。アメリカ軍は、戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受した。第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、日本側が虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被弾して味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった巡洋艦2隻の曳航を命じ、追撃してくるであろう日本側に更なる打撃を加えるための囮とした。実際に、志摩清英中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。
10月15日以降

1944年10月16日午後の撮影
音楽・音声外部リンク | |
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台湾沖航空戦に関するニュース歌謡 | |
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日本軍航空隊は16日まで反復して昼夜問わず攻撃を行い、14日の攻撃によって損傷して曳航中のヒューストンに魚雷を命中させるなどの戦果を挙げたが、航空隊の損耗はさらに増加した。これまでと同様、航空隊からの電文は「空母を撃沈」「戦艦を撃破」といった大戦果を報告するものばかりだった。この間、大本営では前線部隊からの過大な戦果報告をそのまま集計して発表したため、大戦果を大本営発表する結果となった。10月19日、日本軍は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために一時株価が大暴落するという事態も発生した。
実際のアメリカの損害は軽微であり、ヒューストンも沈没しなかった。ただし、4日連続で攻撃を継続し、更にフィリピン空襲や防空戦闘も継続していたため、艦隊の将兵には疲労が蓄積しつつあり、第2群は群指揮官がハルゼーに具申した窮状を認められ、空母バンカー・ヒルが後退した。これにより同群は同艦を欠いた状態でレイテ沖海戦に臨んだ。一方、第1群のワスプや第3群のレキシントンのように具申したものの後退が認められなかった例もあった。ハルゼーの脳裏には、士気に及ぼす影響があった。
15日、志摩艦隊の旗艦那智は足柄、軽巡阿武隈及び駆逐艦7隻(曙、潮、霞、不知火、若葉、初春、初霜)を引き連れ瀬戸内海を出撃した。一方、アメリカ軍のハルゼー提督は暗号解読により日本艦隊(志摩艦隊)が出撃したと知ると、損傷巡洋艦2隻に空母を含む護衛部隊をつけ、偽装電報を発信して日本艦隊を誘因しようとした[39]。しかし日本艦隊の動きが鈍い事を知ると、艦隊戦闘に向けての準備をやめ、レイテ上陸支援に専念するよう命じた[40]。
15日午後、第26航空戦隊の一式陸上攻撃機数機が体当たり攻撃を目的としてフィリピンのルソン島クラークより出撃した(未帰還・戦果不明)。
16日朝には連合艦隊司令部から海上護衛総司令部にまで護衛艦艇をもって米艦隊を追撃せよとの命令が下った[41]。旗艦ニュージャージー艦上のハルゼーはニミッツに宛てて以下のような皮肉交じりの電文を発信した。
"All Third Fleet ships recently reported sunk by Radio Tokyo have been salvaged and are retiring at high speed toward the Japanese Fleet." [42][43]
(日本語訳:「近頃ラジオ東京が全滅したと報じた第3艦隊の艦船は、海中から引き揚げられ、日本艦隊に向けて高速で撤退中。」) — ウィリアム・ハルゼー
カール・ソルバーグによればこれはアメリカ側では有名な報告だと言う。
15日、内務大臣の大達茂雄は大本営海軍部の誤った戦果報告を昭和天皇に奏上し、翌16日および21日には大戦果に関する勅語が発表された[44]。国民は「アメリカ機動部隊せん滅」の大勝利に沸きかえった。海軍は、16日に台湾沖で空母7隻を含むアメリカ機動部隊を索敵機が発見したとの報告を受け、戦果に誤認があることに気付いた。
16日、連合艦隊司令部は志摩艦隊に帰還するよう命じた[45]。17日、志摩艦隊(那智)は奄美大島薩川湾に損失もなく入港した[46]。
10月19日、撃墜された米軍艦載機のパイロットを陸軍憲兵隊が尋問した結果、ルソン島を空襲中の米軍正規空母が12隻であること、その艦名が全て判明したことが報じられ、大本営海軍部の発表した台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りであったことが明らかになった[47]。
参加兵力
日本軍
- 日本海軍の部隊は制度上「艦隊」と称するが、このときの両部隊は陸上基地の航空機部隊である。
- 艦載機のみ。陸上基地より作戦。
- 誤報戦果により残敵掃蕩の任を帯びて日本本土より出撃したが、空振りに終わった。
アメリカ軍
- 第3艦隊(司令長官:ウィリアム・ハルゼー大将)-艦隊旗艦:戦艦ニュージャージー
戦果
大本営発表
- 昭和19年10月12日17時20分
- 「本10月12日7時頃より優勢なる敵機台湾に来襲、15時半頃彼我交戦中なり。我部隊の収めたる戦果中13時までに判明せる撃墜敵機約100機なり」
- 昭和19年10月13日11時30分
-
「一、我が航空部隊は10月12日夜台湾東方海面に於て敵機動部隊を捕捉し夜半に亙り反覆之を攻撃せり。我方の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの左の如し」
- 撃沈 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
- 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
- 「二、我方若干の未帰還機あり」
- 昭和19年10月14日17時
-
「我航空部隊は爾後引続き台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻中にして現在迄に判明せる戦果(すでに発表せるものを含む)左の如し」
- 轟撃沈 航空母艦3隻 艦種不詳3隻 駆逐艦1隻
- 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
- 昭和19年10月15日15時
-
「台湾東方海面の敵機動部隊は昨14日来東方に向け敗走中にして、我が部隊は此の敵に対し反覆猛攻を加へ戦果拡充中なり。現在までに判明せる戦果(既発表のものを含む)左の如し」
- 轟撃沈 航空母艦7隻 駆逐艦1隻(註)既発表の艦種不詳3隻は航空母艦3隻なりしこと判明せり
- 撃破 航空母艦1隻 戦艦1隻 巡洋艦1隻 艦種不詳11隻
- 昭和19年10月16日15時
-
「我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し」
- 轟撃沈 航空母艦10隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦1隻
- 撃破 航空母艦3隻 戦艦1隻 巡洋艦4隻 艦種不詳11隻
- 昭和19年10月17日16時
- 「我航空部隊は明16日台湾東方海面に於て新たに来援せる敵機動部隊を追撃し、航空母艦、戦艦各1隻以上を撃破せり」
- 昭和19年10月19日18時
- 「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」
-
「(一)我方の収めたる戦果綜合次の如し」
- 轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻
- 撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻
- 撃墜 112機(基地における撃墜を含まず)
- 「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」
- 「(註)本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」
- 昭和19年10月21日19時
- 「大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対し左の勅語を賜りたり」
- 「勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」
損害
- 日本軍
- 航空機 312機
- アメリカ軍
- 航空機89機、搭乗員約100名
- 12日:衝突事故により駆逐艦1隻損傷[48]。
- 13日:重巡洋艦キャンベラに雷撃1発命中で火災により航行不能[49]。空母フランクリンに自爆機が衝突[50]。
- 14日:軽巡洋艦ヒューストンの右舷中部に魚雷命中で大損害[49]。軽巡洋艦リノに特攻機が衝突。空母ハンコックに爆弾命中。駆逐艦カッシン・ヤングに機銃掃射[50]。
- 15日:空母フランクリンに爆弾命中[50]。
- 16日:軽巡洋艦ヒューストンに魚雷命中[50]。
誤認
同航空戦では戦果を大きく誤認している。誤認の原因としては以下が挙げられる。夜間攻撃に予定されていた照明隊が吊光投弾使用の困難からほぼ実施されず、夜間索敵となったが、接触機もなく、攻撃避退、戦果確認が至難であり、自爆機の海面火災も誤認の原因となった[51]。捷号作戦では夜間攻撃が重視されていたが、元来夜間攻撃は目標戦果認識困難である上、練度も上達する時間的余裕がなかった[52]。米側のハルゼーも攻撃を受けた際に米艦隊が炎上した様子を見て大損害を受けたと誤認しており、日本の米機動部隊撃滅報告も無理のないことだった[53]。
この航空戦を指揮した第二航空艦隊司令部は10月15日の時点で戦果の誤認に気づいていた。二航艦司令部は15日に従来の戦果判断に加え、最終的に空母に対する戦果を大型、中型合わせて4隻撃沈と判定している。つまり四群からなる空母部隊の一群分程度を撃滅できたが、他の三群は健在と見ていた。それまでの三群を撃滅し、残るは一群、同日の航空戦でそれも撃滅可能という楽観的な判定から逆転している。この戦果判断の重大な訂正は大本営にも、連合艦隊司令部にも報告されなかった[54]。二航艦長官福留繁中将は、米戦略爆撃調査団の質問に「台湾沖航空戦の戦果を4隻くらいとみていた」と証言している[55]。
10月16日には索敵機が台湾沖で空母7隻を含むアメリカ機動部隊を発見したとの報告があった。壊滅したはずの米戦力が発見されると連合艦隊(日吉)司令部で、連合艦隊航空参謀淵田美津雄中佐、軍令部航空参謀鈴木栄二郎中佐、第二航空艦隊兼T攻撃部隊航空参謀田中正臣少佐、連合艦隊情報参謀中島親孝少佐の4人で再検討が行われた。1949年7月31日に淵田美津雄がマッカーサーからの質問に答えた陳述書によれば、田中を招致して、淵田と鈴木で田中の持参した資料を検討し、中島の意見も求め、その結果いくら上算しても空母4隻撃破程度で撃沈はまずあるまいと結着した[56]。軍令部で現地に派遣調査させた三代辰吉も同様の判断をした[50]。連合艦隊参謀淵田美津雄大佐によれば、誤認について参謀長申進を以て注意をしており、17日の「捷一号作戦警戒」発令においても敵空母10隻健在のもと対処するように通達した。この時点で海軍は、連合艦隊、軍令部、各航空隊に到るまで大戦果が誤認であることを共通の認識としていた[57]。戦後、田中正臣はこの再検討の際に話し合われた内容について「覚えていない。そういうこと(忘れてしまうこと)もある」と話している[58]。
ブイン、ブーゲンビルの戦闘ですでに戦果報告の十分の一が実際の戦果であり、戦果誤認は以前から問題になっていた。中澤佑軍令部部長によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が参謀長名(福留繁中将)で打電され、結局反論なくうやむやになっていたという[59]。軍令部参謀藤森康男によれば、疑念もあり軍令部作戦課はさらに検討を加えたが、さしあたり公的には現地部隊報告を基礎に資料作成するほか名案もなかったという[60]。
陸軍の大本営情報参謀であった堀栄三の回想によれば、フィリピン出張の途上で台湾沖にて航空戦中であることを耳にして、「今までの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ、この眼で見てみよう」と思い立ち、鹿屋で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行ったが、戦果に対しての疑問は解消できず、「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」と大本営陸軍部第二部(情報)長宛に打電した[61]。その後作戦課へ報告されたが、省みられることがなかったという。 堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告し、さらに航空戦の戦果ほど怪しいものはなく、ブーゲンビル島の地上戦で敗北したのは海軍のろ号作戦の過剰な戦果報告が原因だと報告した際、米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じたという[62]。
影響
大本営海軍部によって大戦果が誤認であったと再判定された事実は、20日に開かれたフィリピン決戦に向けた陸海軍合同の作戦会議においても陸軍側に伝達されなかった。陸軍は誤認戦果と知らないままルソン島での迎撃方針を、「レイテ島の決戦」に大きく戦略を変更し、決戦兵力をレイテ島へ増派した。しかし、(壊滅したはずの)アメリカ機動部隊などの空襲を受け、第1師団だけは、航空援護もあって無事に上陸することができたものの、そのほかの第26師団や第68旅団などはいずれも装備、物資の過半が海へ沈み、懸命に積み上げてきたフィリピン決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島の兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から第10師団をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から第9師団を台湾へ移動させた。こうして結果的に沖縄戦での戦力不足の原因ともなった。
また、海軍発表の戦果に疑問のあることが堀参謀から第14方面軍司令官の山下奉文大将に報告され、第14方面軍司令官として赴任する前の「決戦はルソン島で行なう」という事前取り決めを幻の大戦果に浮かれて急遽変更した大本営陸軍部第一部(作戦)との方針対立を招く一因となった[63]。
日本はこの航空戦で捷号作戦で期待されたT攻撃部隊のほとんどを消耗してしまった。それでも搭乗員80組が残っており、ただちに再編に着手するが、早くても10月末まで回復の見込みがなく、捷号作戦のレイテ沖海戦で、第六基地航空部隊は精鋭のT攻撃部隊の活躍を期待できず、練度の低い混成の実働機300機にも及ばない航空兵力を主力として臨まなければならなくなった[64]。また、T攻撃部隊の作戦として予定していた、米機動部隊が停泊して活動が不十分な夜間に奇襲する丹作戦の実行も不可能になった[65]。
同航空戦中、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が新竹で味方の飛行機がバタバタ落とされるのを見て、技術的劣勢を知ったことが神風特攻隊創設理由の一つとする説がある。しかし、副官の門司親徳によれば、大西の見える距離でそのような展開はなかったという[66]。
評価
米空母同乗のUP通信特派員は、「今日、日本軍の雷撃、爆撃、戦闘機大編隊が前後10時間にもわたってこの大機動部隊に襲いかかってきた。今次大戦でも最大の海空戦の一つというべく、その激しさの点では4か月前のマリアナ沖海戦をさえはるかにしのいだといえよう。わが艦隊はおそらく海上に浮かんだ最大の軍隊集団と言えようが、この大艦隊は来襲する日本機に対して面もむけられぬような対空砲火をあびせた。この恐るべき防空砲火は日本機を撃墜したが、日本機の編隊は後から後から大波の打ち寄せるようにわれわれの頭上に殺到した」と報じている[67]。
アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソンは、日本軍の空襲を最も激しい規模であると評価しつつ、「わが空母部隊の防御力が、自らを護るのに十二分であることを、六月に続いて再度立証した」と紹介している[68]。
最初の特攻
15日午後、第26航空戦隊司令官の有馬正文少将の搭乗機を含む一式陸上攻撃機数機が体当たり攻撃を目的としてフィリピンのルソン島マバラカット飛行場より台湾沖へ出撃し、未帰還となった。 アメリカ軍の記録に被害の報告はないがこれをもって特攻第一号とする見方もある。
脚注
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 307-309頁
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 290頁、戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで309-310頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁
- ^ カール・ソルバーグ『決断と異議』P94
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 688頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 583-586頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 586頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 589頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 590頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 591頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 594頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 598頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 599-600頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 605頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 606頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 607-609頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 615頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 620頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 622頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 628-629頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 632頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 632-633頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 633-634頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 634-635頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 739頁
- ^ 『決断と異議』P93
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 635-636頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 637頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 638頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 638-639頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 640-642頁
- ^ サミュエル・エリオット・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』光人社310頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで643頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで643頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 644頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 645頁
- ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ』5巻P205
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか59頁
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか61頁
- ^ 大井篤『海上護衛戦』学研M文庫、p.333
- ^ Dan van der Vat (1992). Pacific Campaign: The U.S.-Japanes Naval War 1941-1945. Simon & Schuster. p. 349. ISBN 978-0671792176(Google Booksで閲覧可能な当該ページ)
- ^ Ronald H. Spector (2012). Eagle Against the Sun: The American War with Japan. Free Press. p. 425. ASIN B009NG1PYC(Google Booksで閲覧可能な当該ページ)
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、461頁。 ISBN 978-4-487-74409-1。
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか77頁
- ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか130頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 182-183頁。
- ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫339頁
- ^ a b 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁、『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫339頁
- ^ a b c d e 戦史叢書45巻 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁
- ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 713頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 715頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁
- ^ NHK製作テレビ番組『幻の大戦果 大本営発表の真相』インタビュー
- ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁
- ^ 戦史叢書45巻大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 447頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 160頁-164頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 171-172頁
- ^ 「大本営参謀の情報戦記」 186頁
- ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで712頁
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期545-547頁
- ^ 門司親徳『回想の大西滝治郎 第一航空艦隊副官の述懐』光人社25頁
- ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫338頁
- ^ 『モリソン戦史』(History of United States Naval Operations in World War II),柳田邦男『零戦燃ゆ』5巻P223
注釈
- ^ 水上部隊はこの基地航空部隊の空母撃滅による敵航空機の脅威からの解放のもと敵上陸部隊を攻撃すると定められており、捷号作戦自体は空母部隊の撃滅を主軸に上陸部隊撃滅はそれが前提で成り立っている作戦である
- ^ 「敵空母なし0900」「大型輸送船10隻其の外数隻にして空母を認めず0930」「サイパン上空約4000 雲量8 我れ高度8000米にて偵察確実なり0950」
- ^ 10月1日早朝にコスソル水道で確認された空母4隻、巡洋艦4隻、駆逐艦12隻と、パラオ東方海面に確認されていた空母3隻、駆逐艦4隻
- ^ 但し長官の発熱により3日間の静養が余儀なくされたため、長官のマニラ到着は10月7日午後となった
- ^ 本土北東方面に配備されていた第51航空戦隊の関東地区進出、その関東地区に待機していた攻撃501飛行隊の南九州進出、第3.4航空戦隊の空母航空兵力の基地作戦参加準備など
- ^ この際作戦可能航空兵力の全てを基地作戦に転用されることになった機動部隊本隊に対して、連合艦隊は「連合艦隊参謀長10月10日1035発電」において「基地航空部隊捷二号作戦発動を発令する予定だが、機動部隊はただ今のところ現体制のまま待機させる予定である」と説明している。だがこの約束は後日破られる事になる
- ^ 三番索敵線を担当していた彗星(佐々木上飛曹機)より、1620時地点「ツチ1ア」空母3隻含む1群、更に1624時に地点「キチ3ス」に大型空母4隻を基幹とする別の1群を報じる。同機はその後1720時に「兵力配備敵は3群なり・・其の外約7隻」との報告を最後に消息を絶つ
- ^ 1番索敵線を飛ぶ銀河(徳永飛曹長機)より、1720時地点「ニウ4セ」に兵力不明の敵部隊、次いで1730時「確認せる敵の兵力は空母1隻、巡洋艦1隻、0度速力8ノット地点ニウ4テの南東方約5浬」との連絡が報じられる。なお同機もこれを最後に消息を絶つ
- ^ 実際は14日は台湾を空襲する計画の日ではなかったため、100機程の攻撃を1回行ったのみで、あとは陸軍航空隊のB-29による爆撃に引き継いでいた
- ^ これも前述した巡洋艦キャンベラの退避を誤認した
参考文献
- 防衛研修所戦史室 『戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』 朝雲新聞社、1970年。
- 実松譲 『日米情報戦記』 図書出版社、1980年。
- 高野義夫 『朝日新聞縮刷版(復刻版)昭和19年10月〜12月』 日本図書センター、1987年。
- 保阪正康 『瀬島龍三 参謀の昭和史』 文藝春秋〈文春文庫〉、1991年(初出1987年)。
- 堀の情報を握り潰した件について戦後謝罪を受けたという堀の回想が、P130付近にある。
- 柳田邦男 「第二部」『零戦燃ゆ〈5〉』 文藝春秋〈文春文庫〉、1993年、ISBN 4167240130。
- 誤認戦果について資料批判を交えつつその原因について評論。
- 堀栄三 「Ⅳ」『大本営参謀の情報戦記』 文藝春秋〈文春文庫〉、1996年(初出1989年)、ISBN 4167274027。
- 碇義朗 「台湾沖航空戦・幻の戦果」『レイテ沖海戦(歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社、1995年、ISBN 4054012655。
- カール・ソルバーグ 『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』 高城肇訳、光人社、1999年(原書は1995年の単行本)、ISBN 4769809344。
- 辻泰明・NHK取材班 『幻の大戦果 大本営発表の真相』 日本放送出版協会、2002年、ISBN 4140807296。
- 同名の番組(NHKスペシャル、2002年8月13日総合テレビにて放送)を元にまとめたもの。
- 神野正美 『台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』 光人社、2004年、ISBN 4769812159。
- 大井篤 「第7章 南方ルート臨終記」内「25 台湾沖航空戦祝盆の陰に」『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年(初出1953年、以後1975年、1983年、1992年にも再版。)、ISBN 4-05-901040-5。
関連項目
- 捷号作戦
- キングII作戦
- 瀬島龍三
- ブーゲンビル島沖航空戦 / ギルバート諸島沖航空戦 - 同様に日本海軍が著しく過大に戦果を誤認した航空戦の例。
外部リンク
台湾沖航空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:26 UTC 版)
「ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「台湾沖航空戦」の解説
ザ・サリヴァンズは10月6日以降、台湾と沖縄を空襲する空母の護衛を行う。10月12日に多数の日本軍機がレーダーに捉えられ、台湾沖航空戦の火ぶたが切られた。続く6時間、約50 – 60機の日本軍機が空襲を行った。日没から45分あまり経った後、ザ・サリヴァンズは右舷から低空で接近してきた一式陸上攻撃機を発見し、射撃により炎上させた。続く15分間、ザ・サリヴァンズを含む部隊は3機を撃墜した。18時56分から19時54分にかけてザ・サリヴァンズは5機の撃破を報じている。敵機の攻撃に対してザ・サリヴァンズは18ノットから29ノットに加減速を繰り返しながら8度の緊急回避を行いつつ対空射撃を続けた。 空襲の第2波は12日21時5分から始まり、翌13日2時35分まで続いた。日本軍機は照明弾を投下して目標であるアメリカ艦隊を照らす間、レーダーを攪乱するために欺瞞紙(チャフ)を多用するようになった。ザ・サリヴァンズらは照明弾の明かりから艦隊を隠すために煙幕の展開を行ったため、一帯に靄と明かりが不気味な光景を作りだしていた。ザ・サリヴァンズと僚艦は22ノットから25ノットで合計38回の一斉回頭を行いながら、敵機を迎撃できるように砲を臨戦態勢に置き続けた。 13日、空母から発進した艦載機は台湾空襲に成功したものの、重巡洋艦キャンベラ(USS Canberra, CA-70)が一式陸攻の雷撃で損傷したため、ザ・サリヴァンズはキャンベラの援護を行った。翌日、今度は軽巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL-81)が雷撃されて損傷、ザ・サリヴァンズはすぐにヒューストンの護衛に加わり、キャンベラとヒューストンを守りながらウルシーへ後退した。後退中の16日にも激しい空襲を受け、ヒューストンは艦尾部に2度目の雷撃を受ける。ザ・サリヴァンズは発砲を開始し、銀河1機を撃墜した。さらにザ・サリヴァンズとステフェン・ポッター(Stephen Potter, DD-538)は別の銀河を射撃して炎上させ、燃える銀河はそのまま軽巡洋艦サンタフェ(USS Santa Fe, CL-60)の艦首近くの海面に突っ込んだ。ザ・サリヴァンズはヒューストンから118名を救助し、18日に重巡洋艦ボストン(USS Boston, CA-69)へ移乗させた。ザ・サリヴァンズは損傷したヒューストンに応急修理用の機材を運搬し、負傷者への援助を行った。このヒューストンに対するザ・サリヴァンズによる一連の救援活動の功績により、ラルフ・J・バウム(Ralph J. Baum)中佐は彼にとって初となる銀星章を受章した。
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