第二段作戦とは? わかりやすく解説

第二段作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 07:42 UTC 版)

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第二段作戦(だいにだんさくせん)は、大東亜戦争における日本軍南方作戦第一段作戦)に続く攻略作戦である。南方作戦で獲得した占領地の防備のために米豪の連絡遮断、早期終戦のためにハワイ占領を目的とした。 ミッドウェー海戦の敗退とガダルカナル島の放棄により計画は中止され、1943年(昭和18年)3月に第三段作戦が発令された。

計画

1941年昭和16年)12月、ハワイ空襲北部マレー半島上陸比島航空撃滅戦をもって開始された南方作戦は、予想以上に順調に進展し、1942年3月9日蘭印軍の降伏によって概成した。予期以上に進展したので、1942年1月には、ビルマアンダマン諸島、ポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の強化を企図できるようになった。そのため、第二段作戦の計画を速やかに策定しなければならなかった[1]

連合艦隊長官山本五十六大将は、ハワイ攻略を目指していたが、それが企図できるようになるまでの間にMI作戦、続いてFS作戦を実施する案を作成した。MI作戦はハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた[2]。1942年4月1日に連合艦隊司令部で、首席参謀黒島亀人大佐と戦務参謀渡辺安次中佐を中心にこの作戦案を作成した。成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった[3]

しかし、軍令部はこの案に反対であった。軍令部では米豪交通を遮断するため、フィジー方面の攻略を計画していた。ミッドウェーも攻略後の防衛は困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくかった。連合艦隊参謀たちによって交渉が行われ、「山本長官は、この案が通らなければ、連合艦隊司令長官を辞任すると言っている」と伝えて採択を迫ったが、話は進まなかった[4]。そこで連合艦隊は歩みより、一番遠いサモア島は攻略後破壊して引き上げるが、ニューカレドニア島とフィジー諸島は攻略確保することで合意した。連合艦隊はミッドウェーで米空母を撃滅できれば可能と考えていた[5]

さらに、軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を押さえるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母のわが本土近接を一層困難にすることができると判断し、そのためのAL作戦実施を連合艦隊にはかり、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した[6]

第二段作戦の計画は以下の通り。1942年5月、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)。6月、ミッドウェー攻略作戦(MI作戦)、アリューシャン攻略作戦(AL作戦)。7月、フィジーおよびサモア攻略作戦(FS作戦)。

連合艦隊は10月頃にハワイ攻略を希望していたが、第二段作戦には「すみやかにインド洋にある英艦隊を索めてこれを撃滅する」と記載されている。連合艦隊参謀だった渡辺安次は、東で日本の主力である機動部隊がアメリカと対峙するため、西に回るのは無理があると指摘している。これに関して軍令部作戦参謀だった佐薙毅は、3月には第二段作戦は概定しており、決定直前にMI作戦、AL作戦が加えられたためと語っている[7]

経過

1942年4月、「大東亜戦争第二段作戦帝国海軍作戦計画」を上奏。4月16日、軍令部総長は大海指第八十五号で、前年指示した大海指第一号(連合艦隊長官あて)および大海指第二号(支那方面艦隊司令長官あて)の別冊作戦方針の一部を訂正する形式で第二段作戦方針を示した[8]

4月28日、連合艦隊は関係者に作戦計画案を配布。その後、図上演習開始まで関係者は第一段作戦の戦訓研究会に出席していたため、作戦計画を深く研究する時間的余裕はなかった[9]。戦艦「大和」において、28日から3日間は連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会を実施、5月1日から4日間は第二段作戦の図上演習を実施、図上演習ではハワイ攻略まで行われた。実演は3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた[10]

図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は戦艦「日向」艦長松田千秋大佐が務めた[10]。ミッドウェー島の攻略中に米空母部隊が出現し、艦隊決戦が発生し、日本の空母に大被害が出て攻略の続行が困難になり、統監部は審判のやり直しを命じ、空母の被害を減らし空母3隻を残し、演習を続行させた[9]。数次の攻撃で空母「加賀」が沈没、さらに空母「赤城」に9発命中して沈没する結果が出たが、宇垣は赤城を3発命中の小破に変更した[11]。爆撃、空戦などの審判官が規則に従って判決を下そうとしたとき、宇垣は日米の戦力係数を三対一にするように命じた[12]。その後、攻略には成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した[9]。宇垣は「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した[9]。その後のニューカレドニア、フィジー攻略における図上演習では、沈没したはずの「加賀」を復活させて進行した[11]

二段作戦の研究では、山口多聞少将から提案があり、その内容は、5月にインド要地を占領、7月にフィジーサモアニューカレドニアおよびニュージーランドオーストラリア要地を占領、8、9月にアリューシャンを占領、11、12月にミッドウェージョンストンパルミラを占領。12月、1943年(昭和18年)1月にハワイを占領。その後パナマ運河を破壊し、カリフォルニア州油田地帯を占領、北米全域爆撃という計画であった[13]

1942年5月5日、大海令第十八号を発令。

  1. 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
  2. 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。

5月8日、珊瑚海海戦が発生し、MO作戦を延期。

5月19日、大海令第十九号を発令。

  1. 連合艦隊司令長官は第十七軍司令官と協同し「ニューカレドニア」「フィジー」諸島及「サモア」諸島方面の要地を攻略し敵の主要根拠地を覆滅すべし。
  2. 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。

1942年6月4日、AL作戦ではダッチハーバー空襲を行い、6日アッツ島占領、7日キスカ島占領。

6月5日、ミッドウェー海戦が発生し、空母4隻を損失、MI作戦延期。6月7日、空母の損失によりFS作戦の2ヶ月延期を決定。

7月11日、大海令二十号を発令。「大海令第十八号に基く連合艦隊司令長官の「ミッドウェイ」島攻略及大海令第十九号に基く連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並に「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く。」これによってMI作戦、FS作戦の中止が決定。第二段作戦の計画は破たんしたが、日本はその目的は放棄せず、基地航空部隊をガダルカナル島に進出させることで米豪遮断を図ろうとした。しかし、ガダルカナル島戦では消耗戦になり、目的は達成できなかった。日本は計画を見直し、1943年3月25日、積極的侵攻作戦の中止と防備を固め長期持久体制を確立することを目的とした第三段作戦が発令された。

脚注

  1. ^ 戦史叢書77大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで1頁
  2. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦40頁
  3. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫、1997年11月、21-31頁。ISBN 9784122029934
  4. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦44頁
  5. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦45頁
  6. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦47-48頁
  7. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦52-53頁
  8. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦54頁
  9. ^ a b c d 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁
  10. ^ a b 戦史叢書43ミッドウェー海戦89頁
  11. ^ a b ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上』原書房、2005年2月、50頁。ISBN 9784562038749
  12. ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ、1982年2月、411頁。ISBN 9784257170020
  13. ^ 秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社、1995年5月、35頁。ISBN 9784875190257

第二段作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)

山本五十六」の記事における「第二段作戦」の解説

マレー作戦真珠湾攻撃マレー沖海戦に始まる南方作戦第一段作戦)で大本営要望通り成功を収めると、山本は第二段作戦に取り掛かった山本真珠湾攻撃前に対米最後通告遅れないように中央対し確認していたが、駐米大使館の失態により結果的に遅れていた。山本騙し打ちの声はアメリカ宣伝とはじめ考えていたが、1942年昭和17年2、3月ごろから本当に遅れたのではと考え始めていた。このため山本積極作戦立ち直り困難にして早急に敵の戦意喪失が必要と考えた結果的に真珠湾攻撃宣戦布告前に行われアメリカ国民激昂したことに山本心を痛め「僕が死んだら、陛下日本国民には、連合艦隊には決し初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えて欲しい」と周囲語っている。 4月4日誕生日に、勲一等功二級勲章贈られた。山本は「こんなもの貰って良いのかな」「自分アメリカ軍砲艦南京近く沈めた以外何もしてはおらん軍令部総長功一級の関係からか」と恥ずかしがっていた。 軍令部米豪分断作戦を、連合艦隊司令部当初インド洋作戦主張し軍令部却下されるハワイ攻略作戦へと重点を移す。連合艦隊司令部は、山本の望むハワイ攻略にらんだミッドウェー島攻略作戦独自に作成し早く認めさせるため大本営の望むFS作戦組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝驕りから成功前提スケジュール組まれ敵勢力を事前に調べこともしなかった。作戦案は4月3日軍令部持ち込まれたがFS作戦進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し連合艦隊参謀渡辺安次からミッドウェー攻略作戦認められなければ山本は職を辞す伝えられた。しかし軍令部作戦課は反対意思変えなかった。4月5日渡辺軍令部次長伊藤整一から理解得て軍令部総長永野修身まで伝えられ第一部長・福留繁が召致され協議の末、FS作戦修正加えて連合艦隊案が採決され、第二段作戦の骨子となった軍令部によれば決め手は「山本十分な自信があると言うから」であったという。首席参謀黒島亀人によればミッドウェー作戦における山本辞職示唆脅しではなく決意していたという。また、山本幕僚は一航艦の南雲長官草鹿参謀長批判的であり、南雲第一航空艦隊長官から更迭すべきと要望したが、「それでは南雲悪者になってしまう」と答えて却下した2月22日には日本海軍潜水艦によりアメリカ本土砲撃成功したほか、アメリカ西海岸沿岸大規模な通商破壊戦行っている。これに対してアメリカ海軍4月18日ドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功山本国民から非難投書があった。山本以前から本土空襲による物質的精神的な影響重視していたため、一層ミッドウェー攻略作戦の必要を感じた連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば山本日本空母によるハワイ奇襲企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対してアメリカもまた奇襲企図できると考えていたようであるという。 5月8日珊瑚海海戦日本軍失敗しポートモレスビー作戦延期になり進攻初め止められた。連合艦隊司令部では徹底して追撃せず北上退避した第4艦隊司令長官井上成美臆病風攻撃精神欠如非難した山本は「珊瑚海でもはじめは相当苦戦しましたが結局は実力に物を云はせて押切つたわけでした」と知人語っている。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 ミッドウェー島攻略アメリカ機動部隊殲滅目的とするミッドウェー作戦6月7日決行予定計画される4月22日帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊知らされると、山口多聞源田実から戦力一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早激し反対があったが山本連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した。第二艦隊司令長官近藤信竹からも、「ミッドウェー作戦をやめアメリカオーストラリア遮断集中すべき」と意見があったが山本奇襲できれば負けない答えた。またミッドウェー保持補給には考えがなく、参謀長宇垣纒保持不可能な守備隊施設破壊して撤退する答えている。山本戦訓研究会で「長期持久守勢を取ることは、連合艦隊司令長官としてできぬ。海軍は必ず一方攻勢をとり、敵に手痛い打撃与える要あり。敵の軍備力は我の5から10倍なり。これに対し次々叩いてゆかなければいかにして長期戦できようか。常に敵の手痛いところに向かって猛烈な攻勢加えねばならぬ。しからざれば不敗態勢など保つことはできぬ。これに対してわが海軍軍備一段工夫要す従来ゆき方とは全然異ならなければならぬ。軍備重点主義によって整備しこれだけは敗けぬ備えをなす要あり。わが海軍航空威力が敵を圧倒することが絶対必要なり」と発言5月1日から4日までの図上演習ではミッドウェー攻略中に空母部隊出現日本空母部隊大被害を受ける結果が出るが、宇垣から「実際作戦ではこのようなことにならないよう指導する」と判定やり直し被害下方修正が行われた。また戦訓研究会図上演習でも各部隊から延期求められ攻略目的とする空襲敵機部隊迎撃のどちらが主目的なのか、山本乗る大和」をはじめとする主部隊がなぜ支援の届かないはるか後方からついてくるのかといった疑問出た。またこの頃連戦連勝から軍全体として気が緩み機密保持保たれておらず取り締まるべき連合艦隊司令部も同様であった作戦準備も遅れ延期要望が相次ぎ軍令部2、3週間遅らせることを勧めた聞かず5月25日最後図上演習では攻略作戦成功後の検討だけであった最終的に機材が間に合わずミッドウェー作戦1日遅らせることを認めたが、攻略日の変更はなかった。戦艦群(特に低速伊勢型戦艦扶桑型戦艦)が作戦加わったことについて、山本事前作戦会議で「情だよ」と答えている。 ミッドウェー海戦直前5月14日山本眼鏡をかけマスクをして変装すると、呉駅愛人河合千代子落ち合った山本病み上がりだった河合背負って人力車まで運んだ河合が呉を去る時は、列車窓越しに強く握り合って別れ惜しんでいる。直後には「私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、国家のため、最後御奉公精魂を傾ける終わった世の中から逃れて二人きりなりたい5月29日には私も出撃して三週間洋上に出るが、あまり面白いことはないと思う」という趣旨の手紙を送ったミッドウェー作戦前の山本の大和航海中における生活は以下のようなのだった。まず午前6時ごろ艦橋姿を現すと、無言長官専用椅子に座る。当時艦長高柳儀八大佐参謀長宇垣纏言葉をかわすこともなく、広い艦橋沈黙包まれたという。朝食後の作戦会議では、幕僚全員発言するよう促した朝夕30分の入浴習慣は、平時戦時停泊中、航海中とも変わることがなかった。午後8時になると艦橋作戦室参謀渡辺安次将棋興じ4時間以上指すこともあった。このため午後8時以降先任参謀宇垣黒島ではなく渡辺思われるほどであった山本連合艦隊ミッドウェー作戦敵機部隊誘い出し撃滅することを主目的として説明したが、軍令部ミッドウェー島攻略支援主目的として示した。そのため実行部隊連合艦隊意図徹底されなかった。山本連合艦隊司令部第一航空艦隊南雲艦隊司令部対し命令には書きくわえなかったが、攻撃半数待機させ敵機部隊による側面からの攻撃備えるように指導した。しかし連合艦隊司令部敵機部隊ハワイにおり、出現ミッドウェー作戦成功後でしか想定せず図上演習もしなかった。白石萬隆によれば連合艦隊若干企図暴露して敵艦隊を誘いだそうとしている節があったという。真珠湾にいるはずである敵機部隊動向情報南雲艦隊から機を逸せず知らせてほしいと出撃前に頼まれ作戦転換連合艦隊から知らせることになっていたが、連合艦隊司令部敵機部隊真珠湾出たらしいことを察知したにもかかわらず南雲艦隊伝えることを怠った連合艦隊司令部5月中旬より敵通信増加を気に止めなかったが、6月3日までに入手した情報から我が動静偵知活発に動いている、警戒すべきも好ましいと考えていた。4日ごろには敵機部隊存在する兆候をつかみ、幕僚が「南雲艦隊知らせますか?」と山本相談したが、山本は「敵に無線傍受される恐れがあるし、南雲たちも気づいているだろう」と返答し南雲艦隊へは伝えられなかった。また連合艦隊全部隊へ東京からの甘い状況判断流し続けたままであった。そのため南雲艦隊周囲敵機部隊はいないものとして行動しており、攻略のための攻撃が不十分と知ると待機指示され攻撃隊を使用した参謀長草鹿龍之介によれば山本望み南雲幕僚もよくわかっており、状況が許す限りそうしたが、ミッドウェー基地から航空攻撃があり、敵空母発見ない状況半数無期限に控置しておくのは前線指揮官としては耐えられない後で問題だったとしても当時の状況では南雲決定正しかった」という。 6月5日ミッドウェー海戦において、日本軍ミッドウェー島攻撃中に敵機部隊から攻撃を受け、南雲艦隊主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する山本完成したばかりの戦艦大和」に座乗して機動部隊後方航海し米軍とは全く交戦しなかった。空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和作戦室渡辺安次将棋指している時に受け取ったが、「うむ」「ほう、またやられたか」の一言だけをつぶやき将棋はやめなかった。また、日本主力空母4隻が撃沈された際には「南雲帰ってくるだろう」と述べた翌日ミッドウェー島砲撃する案を渡辺提案し黒島同意する山本はそれを却下した山本幕僚敗因責任は私にある一航艦を責めてはいかんと言い第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介批判的な黒島に対しても「南雲草鹿責めるな」とくぎを刺した大敗後、帰還した草鹿龍之介の「責任を取るべきところではあるが雪辱機会与えて欲しい」という言葉に、山本は「今回のことで誰か腹を切らねばならぬとしたらそれは私だ」と答え再編され空母機動部隊第三艦隊)の指揮引き続き南雲草鹿に採らせた。山本南雲に「今次戦果に関して同憂次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激堪えず願わくば最善つくして艦隊の再編成を完了し過去神技加ふるに、今次教訓加え一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る」との手紙を送っている。宇垣参謀長によれば山本内心は「全責任自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという。 日本帰還後作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及敗因研究が行われることはなかった。7月12日山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣参加せず)は料亭宴会行い着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。ミッドウェー海戦大敗北後南雲艦隊将兵緘口令がしかれたが、山本名刺近況書き愛人河合千代子送っている。海軍兵学校監事長・大西新中将は、1945年昭和20年8月15日玉音放送後、全校生徒前にミッドウェー海戦負けた時、Y元帥は当然腹を切るきだった」と断言し温情主義情報隠蔽敗戦招いた指摘した

※この「第二段作戦」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「第二段作戦」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。

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