第一航空艦隊長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 10:21 UTC 版)
1943年(昭和18年)7月、基地航空部隊として再編された第一航空艦隊司令長官に就任。大本営直轄の決戦部隊として温存策の下、日本本土で錬成が行われた。将来の主戦力として期待され連合艦隊から戦力転用の具申もあったが錬成を続けていたが、途中でクェゼリン、ルオットの玉砕があり1944年2月15日に連合艦隊への編入が決められた。さらにトラック被空襲で予定外の第121航空隊、第532航空隊など実働の全力が投入されることになったが現地訓練には自信が持てず、設立趣旨の機動集中も261空と761空だけの実施でマリアナへの展開は時期尚早であった。一航艦では、南洋に点在する島々を基地とする為、部隊が身軽に移動できる事を重視し、士官も兵食を採用、携行する荷物も最小限とした。角田自身がこれを実践して、自分用の粗末な食器を含む荷物を自ら持参して移動した。幕僚たちの「司令長官ともあろうお方がいくらなんでも」との声にも、「ここは戦場である」と取り合わなかったという。 1944年2月、マリアナ諸島テニアン島に進出直後にマリアナ諸島空襲を受ける。角田は攻撃を企図するが、淵田美津雄参謀は戦闘機が不十分なこと、進出直後で攻撃に成算がないこと、消耗は避けるべきことから飛行機の避退を進言したが、角田は聞き入れず見敵必戦を通した。その結果、練度の高い実働93機中90機を失う壊滅的打撃を受けた。その後も角田は見敵必戦を通し、パラオ大空襲や渾作戦でのニューギニア方面への戦力抽出などで見るべき戦果を挙げないまま、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で期待されていた戦力を壊滅させてしまった。1944年6月マリアナ沖海戦(あ号作戦)では本来は迎撃の主力となるはずであった第一航空艦隊の戦力は僅かであり、第一機動部隊を充分に支援できなかった。第2航空戦隊参謀奥宮正武は積極的性格の角田が機動部隊の指揮をとり、緻密肌の小沢治三郎が基地航空隊を指揮した方が、双方にとって適性だったと述べている。 マリアナの放棄が決定すると連合艦隊司令長官豊田副武大将は角田にダバオへの転進を命じる。そのため潜水艦による角田ら一航艦司令部と航空搭乗員を救出する任務が行われ、角田らは連夜部下とともに短艇に乗り潜水艦との会合地点に待機したが、潜水艦はすでに沈没しており7月19日に至っても成功しなかった。その後は一航艦の陸攻隊がトラック方面から夜間テニアン基地に着陸し、角田ら司令部要員と航空搭乗員任務を脱出させる任務を負ったが、実行前の7月23日に米軍がテニアン上陸を開始。24日、米軍上陸成功によるテニアンの戦いは日本の不利に進んだ。7月28日、角田は「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を軍令部に送る。軍令部の野村実によれば、軍と在留邦人幹部とが十分に協議したこと、老人婦女子は敵手に陥るよりは喜んで死を選ぶであろうことを確信することが述べられていたという。一方で、軍に協力して働いていた民間人に対し、労いの言葉と敵がこの地に上陸するのは必至であることを説明した後、「皆さんは民間人ですから、私達軍人のように、玉砕しなければならないということはないのですよ」と言った、とする資料もある。7月31日、「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム。」との決別の電文を発する。角田自身は自決せず、司令部壕から手榴弾を抱えて他の兵士と共に戦闘に参加、その後の消息は不明である。満53歳没。 角田の墓は東京都府中市の東郷寺に建立されたが、1992年(平成4年)に婉子が95歳で死去して十七回忌の2008年(平成20年)に婉子の遺言で撤収された為、現在角田の墓は存在しない。また故郷新潟県の角田家の屋敷は2006年7月13日の新潟・福島豪雨で失われている。 角田の菩提を供養したいと強く念願してきた傍系の遺族が後年願い出て、日蓮正宗総本山大石寺塔中の久成坊より「覚治院法勇居士」との戒名が授与された。
※この「第一航空艦隊長官」の解説は、「角田覚治」の解説の一部です。
「第一航空艦隊長官」を含む「角田覚治」の記事については、「角田覚治」の概要を参照ください。
- 第一航空艦隊長官のページへのリンク