第一段作戦とは? わかりやすく解説

南方作戦

(第一段作戦 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/02 07:23 UTC 版)

太平洋戦争開戦直前の各国の勢力圏

南方作戦(なんぽうさくせん)は、太平洋戦争/大東亜戦争の開戦時における大日本帝国の進攻作戦[1]

南方作戦陸海軍中央協定で定められた作戦名称は「あ号作戦」[2]。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦(だいいちだんさくせん)」と呼称した[3]

計画

南方作戦経過要図

諸計画書類のうち、南方作戦計画の全貌を明らかに示しているのが「南方作戦陸海軍中央協定」である[4]。中央協定によって各方面の作戦名称は、

と定められた[2]

南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[5]。攻略目標は、フィリピン、マレー、ジャワの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とした[6]

開戦予定日を12月初頭としたのは、日米軍備の比率、特に航空軍備の懸隔が日ごとに不利になること、アメリカの防備が急速に進捗すること、米英蘭の共同防衛関係は緊密となって南方の総合的防備力は急速に強化すること、明春以降になれば北方作戦生起の算があること、作戦地付近の気象関係があることなどが理由である[7]

南方作戦はマレー、フィリピン、ハワイ、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とし、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とした。マレーの夜半はハワイの明け方にあたり、マレー作戦のコタバル上陸がハワイ攻撃に先行しない限度でなるべく早く行うように規制する必要があった。

1941年11月10日の東京協定でハワイ攻撃を優先すると陸海軍が確認したが、この攻撃要領ではハワイ攻撃は機動部隊の航空部隊が夜間発艦となっており、11月23日に機動部隊は検討の結果から黎明発艦へ変更し、空襲時刻を一時間半遅らせた。海軍は今さら陸軍に延期を申し出るわけにいかず、夜間発艦のハワイ攻撃に合わせて上陸を予定していたマレー作戦の上陸が先行することになった[8]。対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、米英可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題になったが[6]、マレーとフィリピンを同時攻撃して倒した後、航空基地の推進と相まって、ジャワを攻略する二段攻撃作戦となった[9]。開戦前は陸海軍ともに進軍限界点、攻略範域をチモール島までと考え、オーストラリアまで拡大するつもりはなかった[10]

陸軍は南方作戦のため南方軍総司令官の準拠すべき「南方軍作戦要領」、「香港攻略のため支那派遣軍総司令官の準拠すべき作戦要領」、南海支隊長の準拠すべき「南海支隊作戦要領」などが策定された[11]

海軍の作戦要領は、在東洋敵勢力を一掃し南方要域を攻略する第一段作戦としていた[12]。海軍はハワイ空襲作戦を独自に決定していた[13]。ハワイ空襲作戦は漸減作戦の一環であり、陸軍参謀本部は南方作戦の戦略的側面掩護のための支作戦ともみなしていた[14]

経過

発動前

1941年9月3日、日本では、イギリスアメリカ合衆国オランダとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

1941年10月29日までに陸海軍中央統帥部における作戦計画書類の策定が終わった[13]。11月5日、陸海軍の大本営総長は両軍の作戦計画を上奏して裁可を得た[15]。11月5日、海軍は大海令第一号をもって、「対米英蘭戦争帝国海軍作戦方針」と「南方作戦陸海軍中央協定」が示達され、「適時所要の部隊を作戦開始前の待機地点に進出せしむべき」旨が指令された[16]。11月6日、陸軍は南方作戦の戦闘序列、作戦準備実施に関する大陸命を発令した[17]

マレー作戦

1941年12月の日本軍の東南アジア方面での作戦

1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、大東亜戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。

イギリス海軍プリンス・オブ・ウェールズレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、海軍航空隊はマレー沖海戦で両戦艦を航空攻撃で撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。

第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。

ハワイ空襲作戦

日本海軍機の攻撃を受け炎上する真珠湾のアメリカ海軍艦船

1941年11月26日早朝、南雲忠一中将指揮下の日本海軍第1航空艦隊は択捉島単冠湾よりハワイへ向けて出撃した。日本時間12月8日午前1時30分、第一波空中攻撃隊が発進し、午前3時25分にフォード島へ、次いで真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力へ攻撃を開始した。日本軍の作戦は成功し、アメリカ軍は戦艦8隻が撃沈または損傷を受け、数千人の将兵が戦死するという大損害を受け、太平洋艦隊は大幅な戦力低下に追い込まれた。

フィリピン作戦

12月8日午後、陸軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍ダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

香港作戦

12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。

グアム作戦

12月10日未明にアメリカ領グアム島へ南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。

ビスマルク作戦

日本軍の中部太平洋への進攻作戦

1942年1月23日に南海支隊はオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルはトラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。

アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦)。

アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。

蘭印作戦

日本軍のオランダ領東インドへの進攻作戦

開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1カ月繰り上げた。

1942年1月11日、第16軍坂口支隊ボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベスメナドに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。

連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。

ビルマの戦い

日本軍のビルマ・インド洋への進攻作戦

第15軍は12月8日以降タイ国内に順次進駐し、タイ・ビルマ国境に集結した。1942年1月18日、第15軍は第33師団第55師団をもって国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに第18師団第56師団の増援を加えて4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。

インド洋作戦

マレー沖海戦で主力艦艇を失ったイギリス東洋艦隊はセイロン島へ退避していた。日本海軍空母機動部隊は1942年4月にベンガル湾へ進出し、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲した。イギリス東洋艦隊は反撃を試みたが空母1隻、重巡洋艦2隻他を失った。

結果

太平洋戦争の1942年の状況(赤いラインは日本軍の最大進出線)

南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。16万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は1万人に満たなかった。この大東亜戦争緒戦の南方作戦は日本軍の快進撃のうちに終わった。

本土がドイツ軍による攻撃を受けていたイギリスと、同じく本土をドイツ軍に占領されていたオランダは、その後各地で反攻に出るまで時間がかかり、本土に大きな被害を受けなかったアメリカは数か月をおいてわずかながら反攻を始めたが、日本軍の猛攻を受け続けて劣勢に回ることを余儀なくされ、その後も各地で後退を余儀なくされたうえに、本土に対する日本海軍艦艇による攻撃艦載機による空襲すら受けるようになった。

その結果、1942年(昭和17年)初頭に日本軍はビルマからソロモン諸島まで東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に手を広げることになった(ソロモン諸島の戦い)。日本海軍はこの激戦の中、同年6月にミッドウェー海戦において敗北したが、アメリカ海軍もその後の各地における度重なる敗北で、稼働空母が1隻も無くなるという窮地に追い込まれ反攻が思うように続かなかった。

さらにイギリス海軍も、セイロン沖海戦によりアフリカ南部への撤退を余儀なくされた上に、避難先のマダガスカルにおいても日本海軍の攻撃を受けるなど、インド洋の制海権を失うことになる。またオーストラリアも本土北部が1943年2月に至るまで日本軍機による度重なる爆撃を受けたほか、シドニー港が日本海軍潜水艦の攻撃を受けるなど日本軍の攻撃に苦しめられた。

しかし、わずか1国のみでイギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして中国大陸における中華民国軍などの数国と対峙することを余儀なくされた上に、当初の予想を上回るほど占領区域が広がり、補給線が伸びきった日本軍は、1943年(昭和18年)終盤までは各地で優位に戦いを進めたものの、やがてガダルカナルニューギニアインパールなど各地で兵力不足と補給不足のまま長期戦に引きずり込まれ、1944年(昭和19年)以降国力を急激に消耗してゆくことになる。

参謀本部部員だった瀬島龍三は「南方作戦は南方の局地作戦という見地に立っていた。グローバルの視点に立って南方作戦を考えてなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた」と反省している[18]

参加兵力

日本陸軍の指揮系統、1941年12月
日本海軍の指揮系統、1941年12月

陸軍

海軍

  • 南方部隊(指揮官:近藤信竹中将、参謀長:白石萬隆少将)
    • 南方部隊本隊 - 第2艦隊(戦艦金剛、戦艦榛名基幹)
      • 南シナ海、次いでパラオ方面で作戦全般を支援する。
    • 馬来部隊 - 南遣艦隊(司令長官:小沢治三郎中将、参謀長:澤田虎夫少将)
      • マレー、蘭領ボルネオ、スマトラ方面の作戦を支援する。
    • 比島(蘭印)部隊 - 第3艦隊の大部分(司令長官:高橋伊望中将、参謀長:中村俊久少将)
      • フィリピン作戦を支援する。フィリピン攻略後、蘭印部隊となり作戦を支援する。
    • 航空部隊 - 第11航空艦隊(司令長官:塚原二四三中将、参謀長:大西瀧治郎少将)
      • 基地航空部隊。比島での航空撃滅戦の後、東方から蘭印作戦を支援する。
    • 潜水部隊 - 第5潜水戦隊(司令官:醍醐忠重少将)

脚注

  1. ^ 戦史叢書 102 1980, p. 404, 付録第1 陸海軍の秘匿作戦名称
  2. ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 307
  3. ^ 戦史叢書76 1974, p. 273
  4. ^ 戦史叢書76 1974, p. 299
  5. ^ 戦史叢書1 1966, p. 37
  6. ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 308
  7. ^ 戦史叢書3 1967, p. 43
  8. ^ 戦史叢書1 1966, p. 45
  9. ^ 戦史叢書76 1974, p. 309
  10. ^ 戦史叢書76 1974, p. 310
  11. ^ 戦史叢書76 1974, p. 299
  12. ^ 戦史叢書80 1975, p. 5
  13. ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 298
  14. ^ 戦史叢書76 1974, p. 329
  15. ^ 戦史叢書80 1975, p. 4
  16. ^ 戦史叢書76 1974, p. 398
  17. ^ 戦史叢書76 1974, pp. 391–392
  18. ^ 戦史叢書76 1974, pp. 315–316

参考文献

関連項目


第一段作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)

山本五十六」の記事における「第一段作戦」の解説

1941年昭和16年8月11日連合艦隊司令長官再任政務参謀藤井茂中佐によれば山本中央戻って軍政活躍して欲しいとの熱望諸方面から寄せられ藤井山本資質軍政向き見ていたが、実現することはなかったという。1941年昭和16年9月連合艦隊航空参謀佐々木中佐に「戦艦は2隻あればいい。戦力としてではなく連合艦隊旗艦と、その予備艦としてだ。通信施設居住施設はよくしなければいかん」と語っている。 連合艦隊の各艦隊長官人事海軍大臣連合艦隊司令長官意向反映され山本第一航空艦隊司令官として南雲忠一兵学校36期)と小沢治三郎兵学校37期)を候補にかけ、小沢より扱いやすい南雲選び水雷戦術専門南雲補佐として航空専門家草鹿龍之介源田実参謀としてつけたと見る者もいる。連合艦隊司令長官付の近江兵治郎によれば山本は、南雲軍令部時代堀悌吉中将予備役追いやったことに対して好印象持っておらず、南雲第一航空艦隊司令長官任命され時には南雲水雷屋が」と悪態をついたという。10月22日に、第一航空艦隊から長官南雲参謀長草鹿更迭し、小沢任命するように参謀長宇垣纏から進言があり、山本同意したという記述宇垣戦時日記にあるが、実現はされていない第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介真珠湾攻撃反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将相談の上戦艦「長門」にいた山本訪れて反対論展開した山本大西草鹿に「ハワイ奇襲作戦断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考え準備進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジポーカー好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言翻し唖然とする草鹿横目に大西山本ポーカー始めた山本草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念実現することに全力尽くしてくれ」とを草鹿肩を叩いた1941年昭和16年9月海軍大学校行われた真珠湾攻撃図上演習では、第一航空艦隊大戦果をあげると同時に空母3隻が沈没・1隻が大破判定された。山本南雲の肩を叩いてああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と語った連合艦隊参謀長宇垣纏によって撃沈判定取り消され演習続けた9月24日、特別討議参謀長宇垣纏から軍令部第一部長福留繁対し、「自分着任後日浅く確たる自信はないが、山本長官は職を賭してもこの作戦決行する決意である」と伝えられた。10月12日近衛文麿別邸荻外荘会談が行われ、及川古志郎海軍首脳優柔不断な応答終始山本は「乃公だいこう)が当局であったら、海軍正直に米国対し最後勝利はないというネ」と批判した10月19日空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)での奇襲作戦承認されたが、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴瑞鶴)を含む6隻という山本希望容認されず、連合艦隊参謀軍令部派遣され、この時にも「職を賭して断行する決意である」と伝えられ強硬な申し入れが行われた。これにより軍令部総長永野修身の「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば」という一言で、軍令部側は全面的に譲歩して6隻使用認めた。また海軍大臣嶋田繁太郎対す10月24日付の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ山本決意知った嶋田ハワイ奇襲攻撃作戦許可出している。黒島亀人幕僚によれば山本は「この作戦採用されなければ長官職責遂行する自信ないから辞任する、この作戦失敗すれば戦争終わりだ」と漏らしていたという。 しかし、南方での持久作戦推奨する軍令部や、伝統的な洋上艦隊決戦重視する多く海軍軍人山本の間には溝があった。また山本心中は、故郷長岡余生過ごしたいという思いと、戦争になれば活躍してさすがは五十サダテガンニ」と言われるはしたいという思い揺れていた。11月下旬から12月旬にかけて、家族親し人々それとなく別れ告げた11月3日嶋田面会、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京出張し軍令部陸軍作戦打ち合わせを行う。13日、呉にて各艦隊指揮官大海第一号を伝え、X時が12月8日であることを明かす12月2日上京した際に山本軍令部事前宣戦布告確認した12月3日昭和天皇拝謁し勅語賜り侍従武官城英一郎山本奉答文を届けると、天皇三度読み返し満足げ表情浮かべたという。 山本ハワイ空襲関連しハワイ攻略相談したこともあり、ハワイにはアメリカ海軍軍人半数存在したため捕虜にすれば勢力回復が困難と見ていたが、実行はしていない真珠湾攻撃目標決定は、山本意図である敵の主力機動部隊緒戦壊滅させ戦意をくじく心理的効果と敵の機動力喪失にあった甲標的母艦「千代田」艦長原田覚より真珠湾攻撃での甲標的使用具申され、山本一死奉公奇襲案に感激するも、攻撃後の収容困難なので不採用とした。しかし、何度も陳情があり採用となった真珠湾攻撃赴く甲標的搭乗員10名と対面した際、山本直筆揮毫渡している。 詳細は「真珠湾攻撃」を参照 12月8日に、マレー半島イギリス軍に対して陸軍が行ったマレー作戦よりイギリスとの間に開戦し続いて行われた真珠湾攻撃では戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、アメリカ海軍太平洋艦隊行動不能する大戦果をあげた。攻撃後、連合艦隊司令部では実行部隊である南雲艦隊による反復攻撃訴える声があったが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官南雲)に任せようと言った参謀長宇垣纏からは今から下令しても時機失し攻撃翌朝になると反対があった。 12月9日山本幕僚ハワイ攻略セイロン島攻略研究命じたセイロン島攻略目的インド洋イギリス海軍艦隊誘いだし撃滅することが目的であった。またセイロン島確保することで西方態勢整えインド独立、敵補給遮断という狙いもあった。連合艦隊戦務参謀渡辺安次によれば山本は「オーストラリア攻略あまりに迂遠すぎる」と言っていたという。しかし翌年2月から日本軍によるオーストラリア本土空襲1943年11月まで実施されている。 12月10日行われたマレー沖海戦成功しイギリス新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈する連合艦隊旗艦戦艦「長門」で、山本は「レパルス撃沈できるが、プリンス・オブ・ウェールズ大破だろう」と言うと作戦参謀三和義勇が2隻とも沈めると反論し山本ビール10ダース賭け三和は1ダース賭けていた。12月10日夜、「長門」の艦橋にいた山本元に天皇からマレー沖海戦勝利を褒賞する感状届いた航海長坂田涓三によれば帽子取って皇居方向最敬礼した山本が、椅子に座るなり艦橋の柵の上うつぶせになり号泣したという。 山本1942年昭和17年1月18日から19日にかけて旗艦臨時戦艦大和」に移したあと、2月12日正式に旗艦を「大和」に変更した従兵長・近江兵治郎によれば山本が「大和」について語ったことはなかったという。「大和」を旗艦としていた頃、機関科乗員依頼して軍用小銃実包自分猟銃使用できるよう違法改造させたという話があるが、実際スラバヤ攻略部隊から献上され英国連装猟銃で、宇垣纏参謀長室に飾っていたものである。 1942年昭和17年2月3日宇垣広島湾撃ち落とし20羽で山本幕僚たちは水鳥鍋を楽しみ、何かと噛み合わない山本宇垣も、この時だけは双方心から楽しんでいた。宇垣この後木更津3月13日)やトラック島でも撃ち行い獲物持ち帰って山本喜ばせた焼鳥会では山本ビール片手上機嫌だった3月30日、「大和」の射撃訓練立ち合った際、46cm主砲目標大きく外れて着弾したため、山本砲術長を厳しく叱責したが、すぐ「射撃失敗喜んでいる。今回命中した大和射撃それまでだ。しかしこの失敗あって日本海軍砲術明日がある」と諭した

※この「第一段作戦」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「第一段作戦」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。

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