南方作戦
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南方作戦(なんぽうさくせん)は、太平洋戦争/大東亜戦争の開戦時における大日本帝国軍の進攻作戦[1]。
南方作戦陸海軍中央協定で定められた作戦名称は「あ号作戦」[2]。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦(だいいちだんさくせん)」と呼称した[3]。
計画

諸計画書類のうち、南方作戦計画の全貌を明らかに示しているのが「南方作戦陸海軍中央協定」である[4]。中央協定によって各方面の作戦名称は、
と定められた[2]。
南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[5]。攻略目標は、フィリピン、マレー、ジャワの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とした[6]。
開戦予定日を12月初頭としたのは、日米軍備の比率、特に航空軍備の懸隔が日ごとに不利になること、アメリカの防備が急速に進捗すること、米英蘭の共同防衛関係は緊密となって南方の総合的防備力は急速に強化すること、明春以降になれば北方作戦生起の算があること、作戦地付近の気象関係があることなどが理由である[7]。
南方作戦はマレー、フィリピン、ハワイ、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とし、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とした。マレーの夜半はハワイの明け方にあたり、マレー作戦のコタバル上陸がハワイ攻撃に先行しない限度でなるべく早く行うように規制する必要があった。
1941年11月10日の東京協定でハワイ攻撃を優先すると陸海軍が確認したが、この攻撃要領ではハワイ攻撃は機動部隊の航空部隊が夜間発艦となっており、11月23日に機動部隊は検討の結果から黎明発艦へ変更し、空襲時刻を一時間半遅らせた。海軍は今さら陸軍に延期を申し出るわけにいかず、夜間発艦のハワイ攻撃に合わせて上陸を予定していたマレー作戦の上陸が先行することになった[8]。対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、米英可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題になったが[6]、マレーとフィリピンを同時攻撃して倒した後、航空基地の推進と相まって、ジャワを攻略する二段攻撃作戦となった[9]。開戦前は陸海軍ともに進軍限界点、攻略範域をチモール島までと考え、オーストラリアまで拡大するつもりはなかった[10]。
陸軍は南方作戦のため南方軍総司令官の準拠すべき「南方軍作戦要領」、「香港攻略のため支那派遣軍総司令官の準拠すべき作戦要領」、南海支隊長の準拠すべき「南海支隊作戦要領」などが策定された[11]。
海軍の作戦要領は、在東洋敵勢力を一掃し南方要域を攻略する第一段作戦としていた[12]。海軍はハワイ空襲作戦を独自に決定していた[13]。ハワイ空襲作戦は漸減作戦の一環であり、陸軍参謀本部は南方作戦の戦略的側面掩護のための支作戦ともみなしていた[14]。
経過
発動前
1941年9月3日、日本では、イギリスやアメリカ合衆国、オランダとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。
1941年10月29日までに陸海軍中央統帥部における作戦計画書類の策定が終わった[13]。11月5日、陸海軍の大本営総長は両軍の作戦計画を上奏して裁可を得た[15]。11月5日、海軍は大海令第一号をもって、「対米英蘭戦争帝国海軍作戦方針」と「南方作戦陸海軍中央協定」が示達され、「適時所要の部隊を作戦開始前の待機地点に進出せしむべき」旨が指令された[16]。11月6日、陸軍は南方作戦の戦闘序列、作戦準備実施に関する大陸命を発令した[17]。
マレー作戦

1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、大東亜戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。
イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、海軍航空隊はマレー沖海戦で両戦艦を航空攻撃で撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。
第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。
ハワイ空襲作戦

1941年11月26日早朝、南雲忠一中将指揮下の日本海軍第1航空艦隊は択捉島単冠湾よりハワイへ向けて出撃した。日本時間12月8日午前1時30分、第一波空中攻撃隊が発進し、午前3時25分にフォード島へ、次いで真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力へ攻撃を開始した。日本軍の作戦は成功し、アメリカ軍は戦艦8隻が撃沈または損傷を受け、数千人の将兵が戦死するという大損害を受け、太平洋艦隊は大幅な戦力低下に追い込まれた。
フィリピン作戦
12月8日午後、陸軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。
香港作戦
12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。
グアム作戦
12月10日未明にアメリカ領グアム島へ南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。
ビスマルク作戦

1942年1月23日に南海支隊はオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルはトラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。
アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦)。
アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。
蘭印作戦

開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1カ月繰り上げた。
1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。
連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。
ビルマの戦い

第15軍は12月8日以降タイ国内に順次進駐し、タイ・ビルマ国境に集結した。1942年1月18日、第15軍は第33師団と第55師団をもって国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに第18師団と第56師団の増援を加えて4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。
インド洋作戦
マレー沖海戦で主力艦艇を失ったイギリス東洋艦隊はセイロン島へ退避していた。日本海軍空母機動部隊は1942年4月にベンガル湾へ進出し、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲した。イギリス東洋艦隊は反撃を試みたが空母1隻、重巡洋艦2隻他を失った。
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日本軍へ降伏するシンガポールのパーシヴァル司令官
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日本軍の空襲を受け炎上する戦艦アリゾナ
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クアラルンプール市内で戦う日本軍
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ジャワ島内を進撃する日本軍
結果
南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。16万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は1万人に満たなかった。この大東亜戦争緒戦の南方作戦は日本軍の快進撃のうちに終わった。
本土がドイツ軍による攻撃を受けていたイギリスと、同じく本土をドイツ軍に占領されていたオランダは、その後各地で反攻に出るまで時間がかかり、本土に大きな被害を受けなかったアメリカは数か月をおいてわずかながら反攻を始めたが、日本軍の猛攻を受け続けて劣勢に回ることを余儀なくされ、その後も各地で後退を余儀なくされたうえに、本土に対する日本海軍艦艇による攻撃や艦載機による空襲すら受けるようになった。
その結果、1942年(昭和17年)初頭に日本軍はビルマからソロモン諸島まで東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に手を広げることになった(ソロモン諸島の戦い)。日本海軍はこの激戦の中、同年6月にミッドウェー海戦において敗北したが、アメリカ海軍もその後の各地における度重なる敗北で、稼働空母が1隻も無くなるという窮地に追い込まれ反攻が思うように続かなかった。
さらにイギリス海軍も、セイロン沖海戦によりアフリカ南部への撤退を余儀なくされた上に、避難先のマダガスカルにおいても日本海軍の攻撃を受けるなど、インド洋の制海権を失うことになる。またオーストラリアも本土北部が1943年2月に至るまで日本軍機による度重なる爆撃を受けたほか、シドニー港が日本海軍潜水艦の攻撃を受けるなど日本軍の攻撃に苦しめられた。
しかし、わずか1国のみでイギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして中国大陸における中華民国軍などの数国と対峙することを余儀なくされた上に、当初の予想を上回るほど占領区域が広がり、補給線が伸びきった日本軍は、1943年(昭和18年)終盤までは各地で優位に戦いを進めたものの、やがてガダルカナル、ニューギニア、インパールなど各地で兵力不足と補給不足のまま長期戦に引きずり込まれ、1944年(昭和19年)以降国力を急激に消耗してゆくことになる。
参謀本部部員だった瀬島龍三は「南方作戦は南方の局地作戦という見地に立っていた。グローバルの視点に立って南方作戦を考えてなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた」と反省している[18]。
参加兵力
陸軍
海軍
脚注
- ^ 戦史叢書 102 1980, p. 404, 付録第1 陸海軍の秘匿作戦名称
- ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 307
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 273
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 299
- ^ 戦史叢書1 1966, p. 37
- ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 308
- ^ 戦史叢書3 1967, p. 43
- ^ 戦史叢書1 1966, p. 45
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 309
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 310
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 299
- ^ 戦史叢書80 1975, p. 5
- ^ a b 戦史叢書76 1974, p. 298
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 329
- ^ 戦史叢書80 1975, p. 4
- ^ 戦史叢書76 1974, p. 398
- ^ 戦史叢書76 1974, pp. 391–392
- ^ 戦史叢書76 1974, pp. 315–316
参考文献
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- 服部卓四郎(著), 『大東亜戦争全史』, 1953年
- 防衛庁防衛研修所戦史部 編『大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯』 5巻、朝雲新聞社〈戦史叢書 1〉、1966年。doi:10.11501/9581430 。2025年5月2日閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史部 編『蘭印攻略作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書 3〉、1967年。doi:10.11501/9581670 。2025年5月2日閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯』 5巻、朝雲新聞社〈戦史叢書 76〉、1974年。doi:10.11501/12397698 。2025年5月2日閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『大本営海軍部・聯合艦隊』 2(昭和十七年六月まで)、朝雲新聞社〈戦史叢書 80〉、1975年。doi:10.11501/13276469 。2025年5月2日閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史部「付録第1「陸海軍の秘匿作戦名称」」『陸海軍年表 付・兵器・兵語の解説』朝雲新聞朝雲新聞社〈戦史叢書 102〉、1980年、404頁。doi:10.11501/12195067 。2025年5月2日閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史室(編), 『比島攻略作戦』, 1966年, 『ハワイ作戦』, 1967年, 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』, 1969年, 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』, 1969年
関連項目
第一段作戦
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1941年(昭和16年)8月11日、連合艦隊司令長官に再任。政務参謀の藤井茂中佐によれば、山本に中央に戻って軍政で活躍して欲しいとの熱望が諸方面から寄せられ、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたが、実現することはなかったという。1941年(昭和16年)9月、連合艦隊航空参謀・佐々木影中佐に「戦艦は2隻あればいい。戦力としてではなく、連合艦隊の旗艦と、その予備艦としてだ。通信施設と居住施設はよくしなければいかん」と語っている。 連合艦隊の各艦隊長官の人事は海軍大臣と連合艦隊司令長官の意向が反映され、山本は第一航空艦隊の司令官として南雲忠一(兵学校36期)と小沢治三郎(兵学校37期)を候補にかけ、小沢より扱いやすい南雲を選び、水雷戦術専門の南雲の補佐として航空専門家の草鹿龍之介や源田実を参謀としてつけたと見る者もいる。連合艦隊司令長官付の近江兵治郎によれば、山本は、南雲が軍令部時代に堀悌吉中将を予備役に追いやったことに対して好印象を持っておらず、南雲が第一航空艦隊司令長官に任命された時には「南雲の水雷屋が」と悪態をついたという。10月22日に、第一航空艦隊から長官・南雲、参謀長・草鹿を更迭し、小沢を任命するように参謀長の宇垣纏から進言があり、山本は同意したという記述が宇垣の戦時日記にあるが、実現はされていない。 第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本を訪れて反対論を展開した。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた。 1941年(昭和16年)9月に海軍大学校で行われた真珠湾攻撃図上演習では、第一航空艦隊は大戦果をあげると同時に空母3隻が沈没・1隻が大破と判定された。山本は南雲の肩を叩いて「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と語った。連合艦隊参謀長・宇垣纏によって撃沈判定は取り消され演習を続けた。 9月24日、特別討議で参謀長・宇垣纏から軍令部第一部長・福留繁に対し、「自分は着任後日も浅く確たる自信はないが、山本長官は職を賭してもこの作戦を決行する決意である」と伝えられた。10月12日、近衛文麿別邸・荻外荘で会談が行われ、及川古志郎と海軍首脳は優柔不断な応答に終始、山本は「乃公(だいこう)が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判した。10月19日、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)での奇襲作戦は承認されたが、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)を含む6隻という山本の希望は容認されず、連合艦隊参謀が軍令部に派遣され、この時にも「職を賭しても断行する決意である」と伝えられ、強硬な申し入れが行われた。これにより軍令部総長・永野修身の「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば」という一言で、軍令部側は全面的に譲歩して6隻使用を認めた。また海軍大臣・嶋田繁太郎に対する10月24日付の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している。黒島亀人ら幕僚によれば、山本は「この作戦が採用されなければ長官の職責を遂行する自信ないから辞任する、この作戦に失敗すれば戦争は終わりだ」と漏らしていたという。 しかし、南方での持久作戦を推奨する軍令部や、伝統的な洋上艦隊決戦を重視する多くの海軍軍人と山本の間には溝があった。また山本の心中は、故郷長岡で余生を過ごしたいという思いと、戦争になれば活躍して「さすがは五十サダテガンニ」と言われる事はしたいという思いに揺れていた。11月下旬から12月旬にかけて、家族や親しい人々にそれとなく別れを告げた。11月3日に嶋田と面会、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京へ出張し、軍令部や陸軍と作戦の打ち合わせを行う。13日、呉にて各艦隊指揮官に大海令第一号を伝え、X時が12月8日であることを明かす。12月2日、上京した際に山本は軍令部に事前の宣戦布告を確認した。12月3日、昭和天皇に拝謁して勅語を賜り、侍従武官・城英一郎が山本の奉答文を届けると、天皇は三度読み返し満足げな表情を浮かべたという。 山本はハワイ空襲と関連しハワイ攻略を相談したこともあり、ハワイにはアメリカ海軍軍人の半数が存在したため捕虜にすれば勢力回復が困難と見ていたが、実行はしていない。真珠湾攻撃の目標決定は、山本の意図である敵の主力機動部隊を緒戦で壊滅させ戦意をくじく心理的効果と敵の機動力の喪失にあった。甲標的母艦「千代田」艦長・原田覚より真珠湾攻撃での甲標的の使用を具申され、山本は一死奉公の奇襲案に感激するも、攻撃後の収容が困難なので不採用とした。しかし、何度も陳情があり採用となった。真珠湾攻撃に赴く甲標的搭乗員10名と対面した際、山本は直筆の揮毫を渡している。 詳細は「真珠湾攻撃」を参照 12月8日に、マレー半島のイギリス軍に対して陸軍が行ったマレー作戦よりイギリスとの間に開戦し、続いて行われた真珠湾攻撃では戦艦4隻が大破着底、戦艦2隻が大・中破するなど、アメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能する大戦果をあげた。攻撃後、連合艦隊司令部では実行部隊である南雲艦隊による反復攻撃を訴える声があったが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と言った。参謀長・宇垣纏からは今から下令しても時機を失し攻撃は翌朝になると反対があった。 12月9日に山本は幕僚にハワイ攻略、セイロン島攻略の研究を命じた。セイロン島攻略の目的はインド洋のイギリス海軍艦隊を誘いだし撃滅することが目的であった。またセイロン島を確保することで西方の態勢を整えインド独立、敵補給路遮断という狙いもあった。連合艦隊戦務参謀・渡辺安次によれば山本は「オーストラリアの攻略はあまりに迂遠すぎる」と言っていたという。しかし翌年2月から日本軍によるオーストラリア本土空襲が1943年11月まで実施されている。 12月10日に行われたマレー沖海戦も成功し、イギリスの新型戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈する。連合艦隊旗艦戦艦「長門」で、山本は「レパルスは撃沈できるが、プリンス・オブ・ウェールズは大破だろう」と言うと、作戦参謀・三和義勇が2隻とも沈めると反論し、山本はビール10ダースを賭け、三和は1ダース賭けていた。12月10日夜、「長門」の艦橋にいた山本の元に天皇からマレー沖海戦の勝利を褒賞する感状が届いた。航海長・坂田涓三によれば、帽子を取って皇居の方向に最敬礼した山本が、椅子に座るなり艦橋の柵の上にうつぶせになり号泣したという。 山本は1942年(昭和17年)1月18日から19日にかけて旗艦を臨時に 戦艦「大和」に移したあと、2月12日正式に旗艦を「大和」に変更した。従兵長・近江兵治郎によれば、山本が「大和」について語ったことはなかったという。「大和」を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させたという話があるが、実際はスラバヤ攻略部隊から献上された英国製連装猟銃で、宇垣纏が参謀長室に飾っていたものである。 1942年(昭和17年)2月3日、宇垣が広島湾で撃ち落とした鴨20羽で山本や幕僚たちは水鳥鍋を楽しみ、何かと噛み合わない山本と宇垣も、この時だけは双方心から楽しんでいた。宇垣はこの後も木更津(3月13日)やトラック島でも鳥撃ちを行い、獲物を持ち帰って山本を喜ばせた。焼鳥会では山本もビールを片手に上機嫌だった。 3月30日、「大和」の射撃訓練に立ち合った際、46cm主砲が目標を大きく外れて着弾したため、山本は砲術長を厳しく叱責したが、すぐ「射撃の失敗を喜んでいる。今回命中したら大和の射撃はそれまでだ。しかしこの失敗あって日本海軍砲術の明日がある」と諭した。
※この「第一段作戦」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
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