終戦工作とは? わかりやすく解説

終戦工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

近衛文麿」の記事における「終戦工作」の解説

1941年昭和16年12月8日太平洋戦争大東亜戦争開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官駐英大使吉田茂接近するうになる1942年昭和17年)のイギリス領シンガポール占領ミッドウェー海戦大敗好期見た吉田は、近衞中立国スイス派遣し英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞乗り気になったため、この案を木戸幸一伝えるが、木戸握り潰してしまった。近衞注意すべきとの東條意向従ったものとされる戦局不利になり始めた1943年昭和18年)、近衞和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心陸軍軍務局長佐藤賢了通じて最近公爵よからぬことかかわっているようですが、御身安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断弱気だった近衞激怒豹変させた。以後近衞和平運動グループ中心人物になる。近衞吉田茂らの民間人グループ岡田啓介らの重臣グループ両方和平運動グループをまとめる役割果たし、また陸軍内で反主流派転落していた皇道派とも反東條一致し提携するなど、積極的な行動展開した1944年昭和19年7月9日サイパン島陥落に伴い東條内閣対す退陣要求強まったが、近衞は「このまま東條政権担当させておく方が良い戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任負わせる様にしたら良い」と述べ敗戦見越した上で天皇戦争責任が及びにくくするように考えていた。 1945年昭和20年1月25日京都近衛家陽明文庫において岡田啓介米内光政仁和寺門跡岡本慈航と会談し敗戦後天皇退位可能性話し合われた。もし退位避け難い場合は、天皇落飾させ仁和寺門跡とする計画定められた。ただし、米内の手記にはこの様話し合いをしたという記述はない。 戦局がさらに厳しさ増し天皇重臣たちから意見聴取する機会設けられることになった平沼騏一郎広田弘毅近衞文麿若槻禮次郎牧野伸顕岡田啓介東條英機の7人が2月天皇拝謁しそれぞれ意見上奏した。近衞1945年昭和20年2月14日に、昭和天皇に対して近衛上奏文」を奏上した。近衞天皇拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職初めであったこの上奏文は、国体護持のための早期和平主張するとともに和平推進天皇対し徹底して説いている。また陸軍主流派である統制派中心に共産主義革命目指しており、日本戦争突入戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力結託し陸軍による、日本共産化陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論主張している。近衛上奏文作文には吉田茂殖田俊吉関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして陸軍憲兵隊逮捕拘束された。昭和天皇和平推進については理解示したが、陸軍内部粛清に関しては「もう一度戦果挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している。近衞主張した陸軍粛清人事とは、真崎甚三郎山下奉文小畑敏四郎皇道派陸軍要職就け継戦強く主張している陸軍主流派排除する計画であるが、皇道派嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった6月22日昭和天皇内大臣木戸幸一などから提案のあった「ソ連仲介とした和平交渉」を行う事を政府認め7月7日に「思い切って特使派遣した方が良いではないか」と首相鈴木貫太郎述べた。これを受けて外相東郷茂徳近衞特使就任依頼し7月12日正式に近衞天皇から特使任命された。この際近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身和平仲介イギリス最適だ考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言ってすこぶる嫌がっていましたね」と戦後述べている。だが近衞モスクワ派遣は、2月行われたヤルタ会談対日参戦決めていたスターリン事実上拒否された。近衞和平派陸軍中将酒井鎬次草案ベース作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土琉球諸島小笠原諸島北千島放棄、「やむを得なければ海外軍隊若干を当分現地残留させることに同意し、また賠償として労働力提供することに同意するになっていた。ソ連との仲介による交渉成立失敗した場合にはただちに米英との直接交渉開始する方針であった

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終戦工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:06 UTC 版)

鈴木貫太郎」の記事における「終戦工作」の解説

1945年昭和20年6月6日最高戦争指導会議提出され内閣総合企画局作成の『国力現状』では、産業生産力交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識示されたが、「本土決戦」との整合持たせるために「敢闘精神の不足を補え継戦は可能」と結論づけられ、6月8日御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された。 この日の重臣会議で、若槻禮次郎から戦争継続についての意見尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブル叩いた。このとき同席した東條英機満足してうなずいたが、近衛文麿微笑しており若槻不審思った。 これは、東條戦争継続派に対す鈴木カムフラージュと言われており、内大臣木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道もうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相どうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣返事で、初め近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」 という若槻証言残っている。前記の「天罰発言なされたのはその翌日であった。 「戦争指導大綱」に従い国民義勇戦闘隊創設する義勇兵役法など、本土決戦のための体制作り進められた。7月陸軍将校案内で、鈴木内閣書記官長迫水久常とともに国民義勇戦闘隊支給される武器展示見学したが、置かれていたのは、鉄片弾丸とする先込め単発銃竹槍・弓・刺又など、全て江戸時代代物で、迫水後年回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであったこうした状況で、木戸幸一米内光政働きかけにより、6月22日御前会議ソ連米英との講和仲介働きかけることが決定された。ソ連日ソ中立条約延長拒否したが、条約規定従い1946年昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連署名していなかったことも政府側に期待持たせた鈴木は「西郷隆盛似ている」と語るなど秘書官松谷誠とともにソ連ヨシフ・スターリン期待していた。 一方でスターリンは、1945年2月ヤルタ会談で、ルーズベルトとの会談ヨーロッパ戦線終わった後に「満州国千島列島樺太侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領トルーマンに、日本から終戦仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連斡旋脈がある信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。 ポツダム宣言発表翌日7月27日未明外務省経由宣言の内容知った政府は、直ち最高戦争指導会議及び閣議開き、その対応について協議したその結果外務大臣東郷茂徳の「この宣言事実上条件講和申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対す意見表示をしないで見送ろうその間対ソ交渉進めソ連出方見た上で何分措置とりたい」という意見合意し政府の公式見解は発表しないという方針取った。 翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英重慶三国共同声明に関しては、何等重大な価値あるもの非ずしてこれを黙殺するであろう」等の論評付せられたものの、その他は宣言要約説明経過報告終始し扱い小さなものであった。 ところが、継戦派の梅津美治郎阿南惟幾豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府ポツダム宣言無視するという声明出してはどうか」と提案して認められた。 28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明カイロ會談焼直し思ふ政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し斷乎戰爭完遂邁進する」というコメント述べた鈴木は、ポツダム宣言に対して意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no commentノーコメント大人びた態度でしばらく賛否態度表明しない)」という意図をこめていたが、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉大きく取り上げられ結果的にこの発言連合国側ポツダム宣言対すreject拒否)と解されたことは誤算となった。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely全面的に無視)」と翻訳されロイターAP通信では「reject拒否)」と報道された。 記者会見出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府ポツダム宣言受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後述べている。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年平成7年)の8月NHKラジオ戦後50年特集番組において、「祖父本心は『ノーコメントと言いたかったのだと思うが、陸軍圧力で『黙殺になってしまったのだろう。祖父後で、あの『黙殺発言失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。 ポツダム宣言対す大日本帝国政府断固たる態度見たアメリカが、日本への原子爆弾投下最終的に決断したとの見方もある。鈴木自身自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。 高木惣吉海軍少将米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となったトルーマン日記には7月25日に「この兵器原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木発言とは関わりがない。この7月25日原爆投下正式な日取り決定された日で、長谷川毅は、トルーマン日本ポツダム宣言拒否後に原爆投下決定したというのは歴史的事実反し宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下正当化するためにポツダム宣言出されたのだと述べている。 一方で同時期にポツダム宣言受諾するよう促され鈴木が、内閣情報局総裁下村宏等に、「今戦争終わらせる要はない」との発言をしたという記録もある。また、トルーマンは「今のところ最後通牒正式な返答はない。計画変更はなし。原爆は、日本降伏しない限り8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下決定は「黙殺発言影響受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙受けてのものであることにかわりはない。 8月6日広島市への原子爆弾投下9日ソ連対日参戦長崎市への原子爆弾投下15日終戦に至る間、鈴木77歳老体押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力尽くした昭和天皇希望は「軍や国民混乱最低限抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争衆目納得する形で終らせるには、天皇本人聖断賜るよりほかない」と考えていた。 8月10日未明ら行われた天皇臨席での最高戦争指導会議御前会議)では、ポツダム宣言受諾巡り東郷茂徳主張し米内光政平沼騏一郎同意した1条件付受諾と、本土決戦主張する阿南惟幾参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論たたかわされ結論がでなかった。 午前2時頃に鈴木起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前出て、思召し御伺いし、聖慮以って本会議決定致したい存じます」と述べた昭和天皇涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意示した昭和天皇聖断下ったが、ポツダム宣言記され国体に関する条文解釈について外務省軍部の間で見解分裂し8月14日再度御前会議招集され天皇聖断を再び仰ぐことになった御前会議8月14日正午終わり日本の降伏決まった8月15日早朝佐々木武雄陸軍大尉中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川私邸襲撃し宮城事件)、鈴木警護官間一髪救い出された。正午昭和天皇朗読による玉音放送ラジオ放送された。この日の未明阿南惟幾自刃した。同日鈴木天皇辞表提出し鈴木内閣総辞職したが、東久邇宮内閣成立する8月17日まで職務執行している。

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終戦工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 06:56 UTC 版)

松谷誠」の記事における「終戦工作」の解説

主戦派が主流陸軍の中で、1943年3月陸軍参謀本部戦争指導課長となり、早期講和模索鈴木貫太郎首相秘書官であった1945年4月、「終戦処理案」をまとめ、ソ連和平仲介による早期講和主張した。「スターリンは(…)人情機微に即せる左翼運動正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体破壊し赤化せんとする如き考えざらん。ソ連民族政策寛容ものなり。右は白黄色人種中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族人種的偏見少なし。されば、その民族政策民族自決固有文化とを尊重し内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。(…)戦後、わが経済形態表面不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が、将来日本的政治への復帰萌芽残し得るならん」などと、日本共産化しても天皇制維持できるとの見方示し戦後ソ連流の共産主義国家目指すべきだとしていた。

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