対ソ接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 13:58 UTC 版)
「チェコスロバキア亡命政府」の記事における「対ソ接近」の解説
1942年12月から亡命政府は積極的にソ連との相互援助条約成立を模索し始め、1943年4月に交渉が開始された。しかしイギリスはこの条約がポーランドの立場を悪くすること、戦時中の二国間同盟樹立を自粛するという英ソ合意に反するとして猛反発し、条約締結に反対した。亡命政府はイギリスとも同様の条約を結ぶことで反発を和らげようとしたが、イギリスの反応も悪く、ソ連も対英条約締結を許さなかった。イギリスとソ連の板挟みとなった亡命政府は進退窮まり、英ソ間の交渉に任せざるを得なくなった。 しかし、チェコスロバキア=ソ連相互援助条約が議題となった1943年10月のモスクワ会談(en:Moscow Conference (1943))では、イギリス外相アンソニー・イーデンは条約締結にあっさり同意した。この態度変更にはアメリカがこの条約締結に反対する意図がないことが明らかになったことなどが理由であると見られている。12月にベネシュはモスクワを訪問し、ソ連=チェコスロバキア友好協力相互援助条約が締結された。
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