対ソ戦との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
1942年、イギリス国会はこのギリシャでの作戦を「政治的感傷的な決定」と批評した。イーデンはこの批評を拒絶し、イギリス連邦における決定は一致しており、この作戦により、枢軸国のソ連侵入を遅らせることになると主張しており、これはキーガンら一部の歴史家たち(特にキーガンは晩年の著作でも同様の主張を繰り返している)にこの戦いが第二次世界大戦の分岐点であったと主張した根拠となっている。ブルックはドイツ軍のソ連侵攻がバルカン半島での作戦行動により、実際に遅れたと認めたようでもある。ジョン・N・ブラッドレーとトーマス・B・ブュエルは「バルカン半島での作戦行動のみはバルバロッサ作戦を遅らせることにはならなかったが、全体的な作戦行動を遅らせることにはなってしまっていた。」と結論付けている。 一方、リヒターはイーデンの発言を「歴史の捏造」としている。ベイジル・リデル=ハートとガンガンは「このドイツのマリータ作戦がドイツ軍のソ連侵攻を遅らせたとしても、イギリス政府の決定が正しいと結論できない、なぜならば、これが最初の重要なゴールではないからである」と主張している。1952年、イギリス内閣官房の歴史担当部署はバルカン半島での作戦行動はバルバロッサ作戦の発動に影響を及ぼしていないと結論付けた。また「5月15日から6月22日までバルバロッサ作戦が延期された理由は、侵攻準備が整っていなかったことと、多雨の冬のために、晩春まで川が氾濫していたからである」と主張する意見もある。 ヒトラー自身はレニ・リーフェンシュタールによれば「イタリア軍がギリシャへ侵攻せず、我が軍がギリシャへ向かうことがなければ、この戦争はちがった結末を迎えただろう。我々は何週間も続いたロシアの寒さを克服し、レニングラード、モスクワを征服し、スターリングラードでの悲劇もなかったであろう。」と語ったとされる。マルチン・ボルマンが残した資料にも同様の発言が記録されているが、ヒトラーの主張は上記のような根拠を用意しての主張ではなく、単純にドイツの破滅についてその政治的責任を同盟国に押し付けようとしたに過ぎないと指摘されている。
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