対ソ侵攻計画
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1940年7月3日フランツ・ハルダー参謀総長は参謀本部作戦部長ハンス・フォン・グライフェンベルク大佐にソ連攻撃計画の予備研究を命じた。その後もドイツ軍の各チームが作戦計画を研究し8月5日にドイツ第18軍参謀長エーリヒ・マルクス(de:Erich Marcks (General))少将が「東方作戦の草案」を参謀本部に提出した(マルクス案)。 マルクス案ではスモレンスク - モスクワ間とキエフを攻勢軸とし首都モスクワの奪取が「ソ連邦の経済的・政治的・精神的中核であるがゆえに、国家としての統合機能・調整機能を喪失させる」と結論付けられた。グライフェンベルク大佐と参謀本部次長パウルス中将協力のもと参謀本部のハルダ―も陸軍総司令部案(オットー)を立案した。陸軍総司令部案(オットー)では特定地域や特定都市の占領は重視されず、赤軍野戦部隊の殲滅に重点が置かれた。ミンスク、スモレンスク、モスクワなどソ連の主要都市は敵兵力を誘引するための囮として位置付けられた。1940年12月5日ハルダ―は「オットー」を陸軍総司令部案としてヒトラーに提出し、ヒトラーは計画に合意を与え訓令起案をヨードルに命じた。ドイツ軍最高司令部のベルンハルト・フォン・ロスベルク(de:Bernhard von Loßberg (Generalmajor))中佐が立案した「フリッツ」とウクライナとレニングラードの奪取を優先したいヒトラーの意向を考慮し最終計画案をヒトラーに提出、ヒトラーは12月18日に総統訓令第21号「バルバロッサの場合」を発令した。 ・ロズベルク・プラン「フリッツ」 西部ロシアにおける陸軍の集団は装甲部隊の楔を遠く、躍進させる大胆な作戦によって殲滅すべし。戦闘力を残す部隊がロシア領奥深くまで撤退することは封じなければならない。しかるのちに猛然と追撃し、ロシア空軍の空襲が不可能となる地点まで到達すべし。作戦の最終目標はおおむねヴォルガ河とアルハンゲリスクを結ぶ線において、ロシアのアジア部分にたいする防止線を得ることにある。それによって必要な場合はドイツ空軍によりウラル山脈沿いに存在する、ロシアに残された最後の工業地帯を無力化することも可能になる。 北欧の鉱物資源に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラードを電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物と鉱物資源の宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だった。経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラーの意向を重視した陸軍総司令部はレニングラードとウクライナを第1目標に位置付けた。しかし各目標の優先度は曖昧なままだった。中央軍集団は白ロシアの赤軍殲滅後モスクワに進撃すべきなのか、それともウクライナやレニングラードにむかうべきなのか作戦案では明らかにされなかった。中央軍集団司令官ボック元帥と第3装甲軍集団司令官ホト上級大将は明確な回答を求めたが、参謀総長ハルダ―は回答をはぐらかした。戦略目標の不明瞭さは開戦まで解消されることはなく、ドイツ軍はモスクワを目前に控えて見解が割れることになる。作戦目標だけでなく戦争目標も不明瞭だった。1940年7月には戦争目標はロシアの生命力を断つことだと明記されたが、12月にソ連邦を屈服させることに変更された。開戦後の1941年8月にはイギリスの同盟国であるロシアの無力化に変更され、戦争目標がソビエト体制の打倒なのかロシアという国家を消滅させることなのかはっきりしなかった。
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