開戦後
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昭和16年12月8日 開戦にともない豊後水道の管制を開始。本務の佐伯海軍航空隊の応援に4機派遣。 昭和17年4月中旬 ミッドウェー作戦準備にともない、豊後水道の管制・哨戒に従事。 昭和17年5月下旬 沖輸送(陸軍部隊のサイパン島経由ニューギニア進出)開始。本務の佐伯空の応援に4機派遣。 昭和17年10月1日 定数改定、水偵24機に倍増。 この間、本土近海の対潜哨戒のため全国各地に派遣、本務の各航空隊の指揮下で活動。 昭和18年6月1日 定数改定、水偵32機に増強。 昭和18年7月7日 日本海に敵潜水艦侵入。山口県油谷湾に4機派遣、対潜掃討に従事するが戦果なし。 昭和18年10月5日 関釜連絡船崑崙丸戦没。博多海軍航空隊雁ノ巣飛行場に4機派遣、関釜連絡船の随伴護衛を開始。 昭和19年3月1日 定数改定。水偵は16機に半減、岩国飛行場に戦闘機隊48機を配当し、岩国分遣隊を設置。 水偵隊の管轄区を内海より対馬海峡に変更。対潜掃討・関釜連絡船随伴護衛を継続。 昭和19年5月20日 「東号作戦」発動。岩国分遣隊を横須賀鎮守府に派遣。 昭和19年8月1日 岩国分遣隊を独立・改編し、第三三二海軍航空隊を設置。 昭和19年12月15日 沿岸哨戒部隊を第九〇三海軍航空隊と第九五一海軍航空隊に集約するが、対象外となり存続。 昭和19年12月17日 S作戦発動。九州西方~北西海域の対潜掃討のため、水偵4機を投入。 以後も規模を縮小しつつ、対馬海峡~関門海峡方面で活動。 昭和20年5月5日 解隊。
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開戦後
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太平洋戦争突入後は機銃・爆雷兵装・対潜装備を一層強化した。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年(昭和19年)8月5日の時点で25mm3連装機銃1基(艦橋前の12mm機銃撤去跡)、25mm単装機銃6基(艦中央から後部の各所)を増備、八一式爆雷投射機4基を増備し計6基、九三式水中聴音機、探信儀の水流覆を装備していた。図によると爆雷投下台らしきものも10基描かれている。
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開戦後
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そのような状況の中、2003年3月19日(日本時間20日)にイラク戦争は開戦されたが、大量破壊兵器は発見されなかった。ジョゼフは、2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報が捻じ曲げられていると寄稿して世論に訴えた。翌7月7日には、ホワイトハウスは16語が誤った情報であったことを認めた。だが、恥をかかされる形となったアメリカ合衆国政府は、ジョゼフの活動を不快に感じており、これと連動する形で2003年7月14日にワシントンの保守系コラムニストであるロバート・ノバクが、ジョゼフの妻はCIAエージェントであると報じた。これにより、ジョゼフが仕事を貰えたのはCIAの縁故であって捜査には不適切だ、と主張したのである。ノバクはこの寄稿で二人の政府高官(後の裁判でカール・ローヴとルイス・リビーである事を証言している)の裏づけがあるとも述べた。なお、CIAエージェントの身分暴露は、アメリカ合衆国の法律である「情報部員身分保護法」により禁止されている。 他方、こうした情報漏洩にジョゼフは即座に反撃して記者会見を開き、妻がCIAの秘密工作員であることを明らかにしたのはアメリカ合衆国政府による報復であると述べ、テレビなどのメディアを通じその違法性を訴えた。その後しばらくアメリカ合衆国では混乱状態が続いた。7月11日、アフリカ訪問中のブッシュ大統領はウガンダで、一般教書演説の内容は事前にCIAがチェックを行っていたとして、CIAの単独責任であると主張した。同日ワシントンでもCIAのテネット長官がCIAの単独責任を認める声明を発表する。実際のところ、CIAは2002年10月5日と10月6日に根拠薄弱というメモを渡していた上、テネット長官も10月7日には、ブッシュの演説から削除するよう電話していたのである。7月22日に、スティーブン・ハドリー大統領副補佐官がバートレット大統領法律顧問と記者会見を開き、自分がついその事を「忘れて」しまったのだと釈明した。恐らく、テネット長官が大統領から任命されている以上、大統領自体を非難できないので、部下を非難したものと考えられている。 その結果、2003年9月28日にCIAは司法省に対して機密情報漏洩に関する調査を依頼する事態となった。ウォーターゲート事件では証拠隠滅の批判で政権が転覆したという教訓があるだけに、政府は徹底捜査を支持せざるを得なかった。2003年10月24日、FBIはスコット・マクラレン報道官やカール・ローヴに対する事情聴取を行なった。2003年12月30日に、パトリック・フィッツジェラルド特別検察官はジョン・アシュクロフト司法長官によってこの事件解明のために任命され捜査を続けた。捜査は政府高官らの圧力や嫌がらせ、マスコミの情報源の秘匿などの圧力があったため、非常に難航した。大陪審は『タイム』のマット・クーパー記者と『ニューヨーク・タイムズ』のジュディス・ミラー記者を召還したが、二人は拒否し法廷侮辱罪で収監された。両社は最高裁に上告したが棄却となった。クーパーは『タイム』誌が取材メモ・電子メールでのインタビューなどを提供したため収監を免れたが、ミラーは収監を免れるため自ら情報を公開したためアメリカ合衆国のメディアからバッシングを食らった。フィッツジェラルドは22ヵ月に及び取り調べを行い、連邦捜査局(FBI)や大陪審に対する偽証などに焦点を絞り遂に立件した。
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開戦後
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浄宝縷丸は開戦後すぐに陸軍に徴用された。徴用後は主に東南アジア方面の輸送を担当したが、1942年(昭和17年)3月1日にイギリス空軍機の攻撃によって損傷を受けたため、一旦修理に入った。 修理完了後の1942年(昭和17年)5月、浄宝縷丸は兵士や軍馬を満載して広東を出港し、ラバウル経由でガダルカナル島に向かった。しかしバシー海峡を通過中に台風に遭遇し、この影響で浄宝縷丸の航海に大幅な遅れが出た。そのため陸軍は浄宝縷丸のガダルカナル行きを中止し、ラバウルで全ての物資を揚陸させた。
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